ジョージ・オーウェルは小説『1984年』において、「ビッグ・ブラザー」と呼ばれる独裁者が支配する高度な社会主義、全体主義、集産主義による国家を描いた。そこでは「ビッグ・ブラザー」がいつも国民を見守っていた。戦後の日本は自由民主主義国家として歩んできたとされる。しかし、実際には政府だけでなく、企業や大学といったものまで「大きなもの」であった。そこには目に見えないけれども、「ビッグ・ブラザーズ」とでも言うべきものが存在した。

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)/早川書房

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ここ数日の新聞やテレビのニュースを見ながら、我々日本人というのは、「大きな政府」以外にも随分と色々な「大きなもの」に無意識の内に支配されていると思う。例えば「大きな大学」であり、「大きな会社」である。なお、ここで言う「大きなもの」というのは、学生数や従業員数、資本金といった量的あるいは物理的な大きさではなく、あくまで「個人への介入の大きさ」を意図している。

「大きな大学」という考え方は、就職活動のニュースを見ながら着想した。大学というのは本来学んだり、研究活動を行う機関であるのにもかかわらず、現在ではハローワーク並みの就職支援サービスも提供してくれる機関となった。大学入学と同時に保護者まで巻き込んで就職活動セミナーを開始し、大学側が設定したプログラム通りに就職活動に関する「教育」が展開されてゆく…。現在では、大学のランク付けにおいて教育研究活動の他に就職率が重要な地位を占めているとも言える。

本来自分自身で専門性を高め、自由に仕事を探せるのにもかかわらず、学生は大学側の過剰とも言える就職支援サービスや就職情報会社のサービスを利用することによって知らず知らずのうちに自由を奪われてゆく。

そうして知らず知らずのうちに自由を奪われた末に入社した会社においても、知らず知らずのうちに自由を奪われてゆく。「優良企業」といわれる企業であればあるほど、おそらくは「大きな会社」であり、「個人への介入」や「個人へのおせっかい」を強める。

伝統的な日本の大企業であれば、独身寮や社宅、各種厚生施設が整備され、医者にかかれば健康保険の一部を会社(正確には健康保険組合)が負担し、厚生年金や雇用保険も給与から天引し会社が積み立ててくれ(一部は会社が負担してくれる)、所得税・住民税も給与から天引きして納税してくれる。組合員(現在では労働組合も会社の一部である)であれば、組合費を払い、組合活動という民主主義と社会主義政党の真似事をするだけで、格安のスキーツアーに行けたり、ディズニーランドの割引券などがもらえる。「大きな会社」に入るだけでこれだけのサービスを受けられる。

しかしサービスの代償として、我々は様々な自由を制限されている。住居が保証されることで、紙切れ一枚で国内外のどこへでも赴かなくてはならないし、私生活においても会社の人間関係の一部を維持しなくてはならなくなっている。健康保険料や社会保険料、税金の支払いが源泉徴収によって行われることで、納付・納税意識を削がれ、選択の自由を制限される。労働組合活動はその活動内容のわりには月給の2%程度という高額の組合費を払わされ、入りたくもない労働共済にまで強制加入させられることで、選択の自由が制限される。

もしも現在会社側からサービスとして給付されているものの全部、あるいは一部をやめて、相当分を給与として支給する形に変えれば、我々の選択の幅は広がりはしないだろうか?選択の幅が多様化し、個人個人が自らのライフスタイルを設計するようになれば新たな価値観も生まれるだろう。

また、今後の日本の経済情勢や雇用情勢を考えると、従来のように会社が過剰なサービスを提供すること自体が会社業績の悪化につながりはしないだろうか?現在の「大きな会社」モデルは、言うまでもなく「右肩上がり」の社会を前提としたものである。もはやそんな時代ではないという現実を考えると、早急にこのモデルを改める必要があるはずだ。