今日は金融経済読書会(Financial Education & Design, FED)の勉強会に参加してきた。今回は3ヶ月に1回開催されるの"Classic"で、テキストはミルトン&ローズ・フリードマンの『選択の自由』を扱った。

選択の自由[新装版]―自立社会への挑戦/日本経済新聞出版社

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主催者ブログ http://d.hatena.ne.jp/fedjapan/20130114/1358148018

フリードッヒ・ハイエクの『隷属の道』、ミルトン・フリードマンの『資本主義の自由』同様、「大きな政府」を批判し、「小さな政府」を主張するという、新自由主義の代表的な著作であり、1980年代のアメリカのレーガン政権、イギリスのサッチャー政権の経済政策に重大な影響を与えたという点は周知の通りである。

「大きな政府」と「小さな政府」については、私自身も高校時代から考えてきたテーマのひとつであるが、このテーマは単純に経済学にとどまらず、政治学や哲学といった領域でも扱われる。今回、『選択の自由』をテキストとして扱うことで改めてこのテーマについて深く考えてみた。

結論から書くと、私は「大きな政府」と「小さな政府」のいずれも支持するし、いずれも支持しない。より厳密を期するのであれば、「大きな政府」であろうが、「小さな政府」であろうが、自国民の生命、財産、自由を保護するものであれば支持をするし、自国民の生命、財産、自由を著しく侵害するものであれば支持しない。「政府」が「良い統治」(Good Governance)を行う限りにおいては、それが「大きい」か「小さい」かは私にとっては大した問題ではない。

「大きな政府」と「小さな政府」の歴史を紐解けば、成功した「大きな政府」と「小さな政府」もあれば、失敗した「大きな政府」と「小さな政府」もあったと言える。もちろん「成功」と「失敗」の定義には議論がある点には注意が必要であるが。

ある人は経済成長をもって国家の「成功」と捉えるだろうし、ある人は国際政治上の影響力の確保をもって国家の「成功」と捉えるであろう。様々な切り口や指標が存在することを考えると、国家としての「成功」が何であるかを定義することは極めて難しい。そして「成功」の対概念として「反対」を捉えるのであれば、国家としての「失敗」を定義することもまた難しいだろう。

しかし、もし仮に国家の「失敗」が「国家あるいは政府としての役割を果たしていない」ということだとすれば、歴史上「失敗した国家」を列挙することは比較的容易ではないだろうか?

近代以降の「国家」あるいは「政府」の存在意義が「国民の保護」にあることは概ね同意を得られる事実であると思う。民主的な国家であれ、非民主的な国家であれ、私有財産権を認めた国家であれ、私有財産権を認めない国家であれ、近代以降の国家というものはその「国民の生命の保護」を基礎としてきた。

しかしながら、存在意義として同意を得られているとしても、それを現実に実施してきたか否かは別の問題であろう。「国家」あるいは「政府」の形態を取りながら、自国民の生命を脅かす政府は現に存在してきた。そして、民主的な国家においても、非民主的な国家においても、私有財産権を認めた国家においても、私有財産権を認めていない国家においても、「大きな政府」の形態をとる国家においても、「小さな政府」の形態をとる国家においても、自国民の生命を脅かしてきた事例は存在する。

「大きな政府」の形態をとり、非民主的で、私有財産権を認めていなかったソ連においては、スターリンの大虐殺に現れている通り、自国民の生命を脅かす政府であった。ソ連が崩壊したことは周知の事実であるが、ソ連の系譜を引く社会主義国家がなお存在し、自国民の生命を脅かす政府を擁していることは紛れもない事実である。

では、「小さな政府」の形態をとり、民主的で、私有財産権を認めているアメリカはどうであろうか?アメリカもまた自国民の生命を脅かしていないわけではないだろう。ソ連と比較をすれば、直接的に自国民の生命を脅かす政府とは言いがたいが、アメリカにおいては政府が「自由」の名の下に規制や制度を確立しないこと、すなわち不作為によって自国民の生命を脅かす政府になっているように思える。

たとえば医療保険制度を構築しないことにより、満足な医療を受けられずに死んでゆく国民が存在するし、銃規制がなされないことによって不幸な銃乱射事件によって国民の生命が脅かされている。「政府の介入」に否定的な態度を取ったり、「自由」を「尊重」することによって生命の危険にさらされる国民が存在することは厳然たる事実ではないだろうか?そう考えた場合、程度の差はかなりあるものの、アメリカもまたソ連同様に自国民の生命を脅かす政府を擁していると考えることができる。

前述の通り、近代以降の「国家」あるいは「政府」の存在意義は「国民の生命の保護」にある。もし、「国家」あるいは「政府」が直接的あるいは間接的に「国民の生命の保護」を放棄するのであれば、そのような国家はその国家形態にかかわらず近代国家としての機能を果たしていないと断ぜざるをえない。

「大きな政府」において過剰な規制や統制、自由の侵害を行うことによって「国民の生命の保護」が放棄されているのであれば、「国民の生命の保護」を行うべく規制や統制は撤廃され、自由が尊重されなければならない。「小さな政府」において「自由」が尊重されることで「国民の生命の保護」が放棄されているのであれば、「国民の生命の保護」を行うべく規制や統制が行われなければならない。

「国民」は「国家」あるいは「政府」のために存在するのではないが、「国家」あるいは「政府」は「国民」のために存在する。「国家」あるいは「政府」の形態が民主的であれ、非民主的であれ、私有財産権を認めているものであれ、私有財産権を認めていないものであれ、大きいものであれ、小さいものであれ、「国民の生命の保護」がなされた統治であれば、それは"Good Governance"を実現していると言い換えることができよう。我々が追求するべくは「より良い統治」あるいは「より悪くない統治」である。