先日、ふと今年はどれくらい勉強会に参加したのだろうかと思い、スケジュール帳を手がかりに数えてみた。先週末で今年の勉強会の全日程が終了し、66回ほど出席していた。平均すると週1回以上は勉強会に出ている計算となる。自分で主宰しているクーリエ読書会@幕張を除くと、最も参加回数が多いのは金融経済読書会(Financial Education & Design, FED)となるのだが、開催場所が後楽園の文京シビックホールであることから、最近は密かに「後楽園大学」と自分の中では呼んでいる(笑)。

そのFEDの事務局長とランチをご一緒した際に、こんなことを言われた。曰く、「こういう勉強会をやることで企業の人材の流動性が高まると思うんですよ」。この考え方には全面的に賛成である。さらに私は、こういった勉強会が「新しい学びの空間」となり、主体的に知識を身につけた市民によって、民主主義国家そのものが成熟することになると考えている。

勉強会自体は何も特別真新しいものではないだろう。幕末の志士たちの会合はある種の勉強会ということができるし、幕末以前にもとりわけ武士階級においては現在の勉強会のような会合が開催されていたはずである。

しかし、現代においては、毎日のようにあらゆる場所で勉強会が開かれるようになり、扱われる内容も政治、経済、科学のような内容から、モデル・ファッション評論のようなものまで(「赤文字系読書会」や「anan読書会」のようなものが実在する)、実に多種多様な勉強会が開催されている。

私が学生の時分はホームページやメーリングリストで知ることが多かったが、最近はFacebookやTwitterといったSNSを介してということが多くなった。SNSの爆発的な普及は各種勉強会の検索性を高め、そのことが各種勉強会に数多くの人が参加し、多様な価値観がぶつかり合うこととなった。

さらに様々な勉強会の選択肢が存在することで、それぞれが最適と思う「学びのメニュー」を組み合わせることが可能である。ある人は政治学と経済学を中心に組み合わせたり、またある人はファッションとサイエンスを組み合わせるといった具合にである。

今仮に、政治学、経済学、経営学、法学、哲学、科学、ファッション、アニメ、美術、文学の10個の分野の読書会があるとしよう。この中から優先順位をつけることなく4つ選択するとすれば、210通りの組み合わせが存在する。もし優先順位をつけるとすれば実に5,040通りが存在するわけである。このことからわかるのは、多くの人が各種勉強会に出るようになれば、それだけ様々な「学びの組み合わせ」が存在するということである。そして、各自の「学びの組み合わせ」が他の人と完全に一致するというのはおそらく稀である。

「学びの組み合わせ」という発想自体は、単位を比較的自由に組み合わせることのできる大学において担保されてきたと考えることができる。しかし、大学という場所は基本的に「既に確立した学問」を基礎としており、新たな分野が「学問」として確立するまでにはそれなりの時間を要する。しかし、現在進行中の「新しい学びの空間」では、勉強会のような集まりが実現した時点で「学問が始まる」。

「大学」という場所は、基本的に「学問の自由」が「保障」されていると考えられる。しかし、実際には世の中の多くの「大学」において、「学問の自由」と思われているものが「学問の不自由」でしかないという点に我々は気付いていない。「新しい学びの空間」においては、組み合わせ方次第で既存の大学を超えることもできるだろうし、本当の意味での「学問の自由」を得ることができる。

この「新しい学びの空間」についてはまだまだ自分の中でもしっかりと整理ができていないため、今後の活動を通してしっかりと考えて行きたい問題のひとつである。