先日、ジョージ・クルーニー監督の『グッドナイト&グッドラック』を再び観たのだが、現在の日本のテレビ業界についても同様のことが言えるのではないかと思い、エドワード・R・マローのスピーチのシーンを下記に引用しておきたい。現在のテレビ業界やテレビ番組を考えるにあたって、非常に重要なことを含んでいるように思える。

歴史は自分の手で築くもの。もし50年後や100年後の歴史家が、今の1週間分のテレビを見たとする。彼らの目に映るのはおそらく、今の世にはびこる退廃と現実逃避と隔絶でしょう。アメリカ人は裕福で気楽な現状に満足し、暗いニュースには拒否反応を示す。だが我々はテレビの現状を見極めるべきです。テレビは人を欺き、笑わせ、現実を隠している。それに気が付かなければ、スポンサーも視聴者も製作者も後悔することになる。

歴史は自分の手で築くものと言いましたが、今のままでは歴史から手痛い報復を受けるでしょう。思想や情報はもっと重視されるべきです。いつの日か日曜の夜のエド・サリヴァンの時間帯に教育問題が語られることを夢見ましょう。スティーヴ・アレンの番組の代わりに中東政策の徹底討論が行われることを。その結果、スポンサーのイメージが損なわれるか?はたまた株主から苦情が来るか?そうではなく、この国と放送業界の未来を決める問題について、数百万人が学ぶのです。

「そんな番組は誰も見ない」、「皆、現状に満足だ」と言われたら、こう答えます。「私の個人的な意見だが、確証はあるのだ」と。だが、もし彼らが正しくとも失うものはありません。もしテレビが娯楽と逃避だけのための道具なら、もともと何の価値もないということですから。テレビは人を教育し、啓発し、心さえ動かします。だがそれはあくまで使う者の自覚次第です。それがなければテレビはメカの詰まったただの箱なのです。


エドワード・R・マローはマッカーシズムに立ち向かったジャーナリストで、『グッドナイト&グッドラック』はその姿を描いたノンフィクション作品である。上述のマローのスピーチは1958年のものとして登場するが、マローの夢見た「テレビ番組」のあり方は50年以上たった現在でも実現されていないように思える。全てではないが、テレビ番組は相変わらず人を欺き、笑わせ、現実を隠し、娯楽と逃避だけのための道具、つまり「メカの詰まっただけの箱」から脱しきれていない。

スポンサーも、視聴者も、製作者も、テレビが人を教育し、啓発し、心さえ動かすということを十分に理解していないということではないだろうか?マローの50年後の歴史家は「テレビは50年間何も変わらなかった」と評価するかもしれない。そして、今のままではおそらくさらに50年後の歴史家、つまりマローの100年後の歴史家もまた「テレビは100年間何も変わらなかった」と評価するかもしれない。しかし、マローの言うとおりこれは使う者の自覚次第で変えることができるはずである。我々が自覚と良心と知性を持つことが出来れば、これまでの50年間で変えられなかったこともきっと変えられるはずである。

5年前にこの作品を始めて観た時にもmixiのブログに感想を書いているが、マローのようなジャーナリストが存在し続ける限りアメリカはアメリカであり続ける。逆に言えばマローのようなジャーナリストがアメリカから消えてしまった時、アメリカはアメリカでなくなる。同じことは全ての自由民主主義国家にも言える。自由民主主義国家の究極的かつ理想的な国民とは、本来自らの良心と知性を備えているものであるはずだ。