先日、劇団四季自由劇場にてシェークスピアの『ヴェニスの商人』を観てきた。平幹二朗主演、浅利慶太演出、脚本翻訳は福田恆存という珠玉の組み合わせである。福田恆存は既に故人であるが、平幹二朗と浅利慶太はともに1933年生まれである。同世代に先日亡くなった児玉清(1934年生まれ)、長門裕之(1934年生まれ)と同世代であることを考えると、今後この珠玉の組み合わせを観ることが難しくなることも考えられる。

『ヴェニスの商人』は生まれて初めて観た舞台であり、これを機に演劇や戯曲作品に興味を持つこととなった非常に思い入れの強い作品である。(ちなみに最も好きな演劇・戯曲はエドモン・ロスタンの『シラノ・ド・ベルジュラック』である)。

演劇に限らず、文学や映画といった芸術作品の役割のひとつは現実世界での評価を180度覆すことにあると思う。現実世界の法、規範、倫理、権威、社会制度、理不尽などといったものによって圧殺されてしまったものを芸術の世界において救済することによって、観る側に健全な批判精神を提供し、人々に良心や良識といったものを持たせようとしている。

私がこよなく愛する『シラノ・ド・ベルジュラック』は権威にすがることなく己の心意気のみで生きようとする剣豪にして詩人の生き様を描いているし、デュマの『三銃士』は時の大宰相アルマン・ジャン・プレシ・ド・リシュリューの冷徹な現実主義を痛烈に批判した作品である。ちなみに一見矛盾するようであるが、この宰相リシュリューこそ私が最も尊敬する政治家の一人である。

日本の舞台芸術においても、歌舞伎の人気品目である『勧進帳』や『忠臣蔵』などは、鎌倉幕府や江戸幕府という時の権力、権威に対する挑戦という側面を持っている。それぞれ、時の権力に叛意を抱き、それぞれの理や義、志を遂げようと試みるものの、巨大な権力の前に挫折するという筋書きである。叛逆者の心情を丹念に描写することで、単なる謀反人以上の価値を観る側に提供しようとする創り手の意図が存在する。

『ヴェニスの商人』が非常に面白く、しかし非常に難しい作品であるのは、ストーリーと演出自体が現実世界でのシャイロック(=ユダヤ人)の評価を作品中においてもほぼ全て踏襲している点である。アントーニオを初めとするヴェニスの商人を勧善懲悪の発想に基づいて救おうと試みながらも、本来的には理のある、しかしながら慈悲の心のないシャイロックをスケープゴートとして扱っている。

シャイロックは証文に書かれた胸の肉1ポンドを得られなかったばかりか、元本を主張する権利も失い、その他の財産も失い、最愛の娘も失い、最後は自らの尊厳と信仰すらも失ってしまう。公爵の「慈悲の心」により、唯一命だけは失わずにすんだが…。裁判における美辞麗句により、『ヴェニスの商人』たるアントーニオーが最終的に財産も友人も命も失わなかった事実と比較すると実に悲劇的な結末なのである。

もともとシャイロックの正当性は契約の証文に書かれていることのみにあるのだが、その証文自体にあぐらをかいたがゆえに破滅を迎えてしまう。一般的には「慈悲の心」を持たなかったがゆえにシャイロックが戒めを受けたという解釈が成り立つのであろうが、私はこう考えたい。すなわち、契約や裁判というものは、ベルモンテの箱選びにおいてバサーニオも指摘したとおり、「どんなにいかがわしい曲がった訴訟でも、巧みな弁舌で味付けすれば、邪な心のひだを消し去れるではないか」という言葉はアントーニオとシャイロックの訴訟についても当てはまるのである。

また、全てを失い失意のうちに法廷を去ってゆくシャイロックに対してヴェニスの市民たちが容赦なく罵声を浴びせる姿は、初めに結論ありきで裁判が遂行され、悲劇が生み出される可能性があることが十二分に語られている。独断と偏見により、正義が曲げられてしまうという人間の非常に醜い側面も描かれているのである。この点はスケープゴートをユダヤ人とすることでやや希釈されてしまっているようにも思えるが、シェイクスピアによる裁判所批判でもあったのかもしれない。

今回の台本の翻訳を手がけた福田恆存はシェイクスピアの生きた時代背景を考えると、シャイロックに対して同情的な解釈を取るべきではないと主張するが、演出を手がけた浅利慶太はこの福田恆存の主張に異を唱えるものであるとも考えられる。福田恆存の翻訳に則りつつ、浅利慶太の演出も忠実に受け入れた平幹二朗の演技は非常に秀逸なものであったと評価できる。

法廷の場が終わり、ポーシャの指輪の話に移ると、すなわちシャイロックが退場した後は急速に喜劇的要素を強めてゆく。シャイロックにスポットをあてるのであれば、シャイロックが法廷を去る場面で終わらせるという演出もまた可能であろう。観客はこの喜劇的な大団円を観ることによって、喜劇の余韻をもって観劇を終えることになる。しかしながら、演劇をただ観るという感覚に基づけばシャイロックの心情を深く考えるということはおそらくはないだろう。私自身、中学生の時に初めて観た折はまさにこの感覚で観てしまっていたのである。

シャイロックが劇中において救われることはない。だが、『ヴェニスの商人』を丹念に観てゆくと、解釈によっては観客自身がシャイロックに心のどこかで同情を示すことで、慈悲の心はないが理のあったシャイロックを救うことができる。そういう点では『ヴェニスの商人』を「悲劇的な喜劇」と考えることもまた可能なはずである。