このころ細野さんのゼビウスの成績が40万点くらいだそうです
中沢新一・細野晴臣『観光 日本霊地巡礼』(ちくま文庫)
二人が毎回日本の霊地を訪れ、そこで行う対談をまとめたもの。
対談が行われたのは1984年頃、YMOが散開したちょっとあとです。
訪れる場所は天河大弁財天社から始まって戸隠神社とか伊勢神宮など。
対談の内容は霊的なものとか超能力とか自然とか地球とか音楽とか、二人が興味あるものをひたすらしゃべって、とにかく話があちこちに飛びます。
このころ細野さんがフラクタル理論を覚えたらしく、とにかく使いたいんでしょうね(笑)。どんなこともフラクタルに結びつけてしまうので、私には内容が理解しづらいところも結構あります。
その一方で、二人ともまるで子供みたいに毎回土産物を大量に買い込んだりしてまして、そのはしゃぎようが読んでてムフフと笑えます。
細野さんは大山で金剛杖を3本買ってます。そんなに買って何につかう気でしょう。
中沢さんは豊川稲荷の土産屋でキツネの面を山ほど買って、きしめん屋のオヤジに見せたら「こんなもん買ってショーガナイなあ」って言われて落ち込んでます。ほんとショーガナイ。
対談を読んでて気になるのですが、二人の意見が実に合いすぎるんですよね。自然とか霊的なものについての考え方とか、最近興味がある思想とか、YMOの解釈の仕方とか、結構難しいことについても、なぜか二人の意見がちっとも対立しない。
二人が対等に話しているように見えて、実際は中沢さんが細野さんに上手く言葉を合わせて、細野さんをのせるような役を演じてるんですかね。
それとも考えとか価値観が見事にぴったりあう二人なのか?
さて、この対談集は、最後の1編だけ他の対談の5年後、1989年にに行われたもので、その中にこんな会話がありました。
細野 ちょっと話違うけど、おすぎとピーコなんてすごい的確な意見
を持っているんだよ。
中沢 うん、あれはいま絶好のポジションに立っている人たちですね。
細野 ただ、ああいう人がかつての御意見番の代わりを果たしている。
男でも女でもないんだよね。
2005年現在でも通用する会話。おすぎとピーコ、昔から実にしたたかに生きてます。
阿房列車は車中で読みたい
先週末に東海道線で三島まで帰省したのですが、その車中で久々に読み返そうと思ったのが
内田百ケン『阿房列車』(ちくま文庫)
車中で、同じ路線をたどる『特別阿房列車』や『区間阿房列車』を読もうという趣向です。
が、電車のゆれと日差しの暖かさに車中では熟睡。結局翌日家に戻ってきてから読み直しました。
阿房列車シリーズは、『特別阿房列車』の冒頭で述べているように、
1,なんにも用事がないけれど、汽車に乗ってどこかへ行く
2.用事がないのに行くのだから、贅沢に一等車に乗るべきである
3.用事がないのだから、目的地についたら観光などせずすぐ帰ってくる
4.帰りは「家に帰る」という目的があるのだから、贅沢などせず三等車に乗るべきである
という、百ケン(以下百鬼園)先生らしいひねくれた論理で企画される旅なのです。
さらにこの方、旅費がなく、毎回人に多額の借金をしてこの旅を実行します。しかも、毎回ちゃんと返しているのか、ここのところは読んでもよく分からない。
さて百鬼園先生、毎度わがままと意地っ張りとで、お供のヒマラヤ山系を筆頭とする周りを振り回します。読者としてはこれに苦笑しつつなぜか痛快。
例えば『区間阿房列車』では、国府津駅での乗り換えの際、御殿場線ホームに出る階段を上る途中で機関車の発車の汽笛が。急げばまだ余裕で間に合うのに、百鬼園先生はすねてしまいます。
「あっ、発車する」と思ったら、階段の途中で一層むっとした。
その音を聞いて、あわてて階段の残りを駆け上るのはいやである。人が
まだその歩廊へ行き着かない内に、発車の汽笛を鳴らしたのが気に食わない。
意地を張ってどうする。ホームに着くと列車はまだ徐行なので、駅員が手伝って列車に押し上げてくれるのです。が、百鬼園先生はそれには応じずベンチにすわり、次の列車を待ちます。
しかし、次の列車がくるのが2時間後。することもなくじっとしてると次第に腹がたってきて、駅長事務室に文句を言いに行く、といった具合。面倒な客だな。
この旅では沼津についた後、西村京太郎もびっくりなルートで東京に戻るのですが、その車中、旅費を使いすぎたことを反省してますね。いや、文面では、ずっと食堂車で飲んでるんだから高い金だして一等車に乗った意味がないと言ってるだけですけど。
でもその前の『特別阿房列車』の最後でも、金を使いすぎてちょっと反省しているようですから、今回もそうだと思いましょう。
反省しつつもまた借金作って旅に出てしまうと考えると、結局百鬼園先生に振り回されているのは周りだけじゃなくて自分自身なのねって思えて、より百鬼園先生の魅力が増すんだな。
ぱらぱらめくるのにふさわしいサッカー本
岩永修幸編『蹴球真髄 -サッカーの名言集』(出版芸術社)
名言集はよくありますが、この本ではサッカー選手、監督、関係者の言葉を取り上げています。
たとえば、
人は後半のことしかおぼえていない。
グレアム・テイラー
監督には二通りしかない。クビになった監督と、これか
らクビになる監督だ。
ハワード・ウィルキンソン
いいですね、ハワード・ウィルキンソンさん。存じ上げませんが、言ったときのしてやったりって顔が目に浮かびます。
この本、各ページに大体3本程度の名言が載っているだけというシンプルな体裁をとっています。暇なときにパラパラとめくって「おっ!」という名言に出会うのがよい読み方かと思います。
意外と、サッカーの名言というより、人生訓めいたものも多いようです。
間違った指示にもおとなしく従う、お人形さん集団では、
組織は絶対に強くならない。
ジーコ
本当に強いチームというのは、夢を見るのではなく、でき
ることをやるものだ。
イビチャ・オシム
今を戦えない者に、次や来年を語る資格はない。
ロベルト・バッジョ
上司が朝礼で言いたくなるような、まさに名言ですよ。
利用するシチュエーションを他にも考えてみます。
例えば、あなたは不利な状況で交通事故を起こしてしまいました。相手が警察を呼ぶと言ってきかないこんな時、「まあまあ落ち着いて、ビセンテ・リザラズもこう言ってるじゃないか」と話をもちかけてみましょう。
どうしていいか分からないときは、ジダンに任せる。必ず
どうにかしてくれる。
ビセンテ・リザラズ
ジダンと示談をかけて、示談にもちこみたいんですが、ダメですか。
そういう人にはサッカーファンを名乗ってほしくない。
北澤豪
ごめんなさい。失礼しました。
自分は大丈夫かという不安
軽い気持ちで読み始めたら、とんでもないことになりました。
色川武大『狂人日記』(講談社文芸文庫)
ときおり発作を起こしたり幻覚、幻聴に悩まされる自分を休ませるために自ら病院に入った男が主人公です。これ以降のできごとが彼の視点で書かれます。
彼が見る普段の景色の中に、突然幼いころの弟が出てきて、なぜだか自分も子供に戻っている、そこでは不条理なできごとがつぎつぎと展開されて、ふと我に返ると自分は幻覚をみていたらしい。他人から見るとそのとき彼は痙攣したりほえているらしい。
なぜ、発作をおこしたり幻覚をみたりするのか。彼の幼いころからの記憶や幻覚の内容が語られ、読み手は彼と他者とのかかわり方にその原因を感じ取ることになります。
小学生のころに彼は妙な遊びを発明します。
左手、右手をそれぞれ力士に見立て、両手で相撲をとるのです。
実際の力士を想像し、両手を動かす。星取表をつける。力士名を書いたカードを作ってこれを毎回の相撲の取り組みに使う。力士の数を、十両、幕下と増やしていく。
そのうちサイコロを使うようになり、これで入場人員、つまり売上を定めたり、取り組みでの技や逆転の可能性をサイコロで決めて毎回の取り組みをおこなうなど遊びが発展します。
引退した力士の活動、新弟子の補充など想像が広がり、この遊びがやめられなくなります。
さらにエスカレートし、同じものの野球版を作成、映画版も作成。次に一般市民を山ほど作って、彼らが相撲や野球や映画の娯楽を楽しむのだが各家庭の収入によりそれにも限度を設けるという凝り様。
これを一人で延々とおこなうのです。
(この遊びの魅力の説明と、彼がこれに憑かれてやめられない描写に説得力があり、色川武大自身が小さいころにこの遊びに近いことをやっていたのだろうなと勝手に想像してしまいます。彼はエッセイなどで、子供の時分に人と交わるのがへたで、他人の行動をただ眺め、空想するのが好きだったと言ってますから。)
このころから彼は他者と距離をおくようになります。
自分だけの世界をみなもっているものなのか、みな人前ではそれを隠して暮らしているのか、そこに悩みます。
家庭では父親が破産、母親が男をつくって出て行き、ここで人に裏切られるという思いを強くし、彼は自分の夢を偏愛するようになっていきます。
さて、病院でであった、彼女自身も精神病である女性に好かれ、先に退院した彼女が彼を招きいれて病院の外で二人暮しを始めます。
彼は最初、彼女を信じてこころを通わすようにしよう、彼女を精一杯理解して、自分も理解してもらおうとしますが、結局、次第に自分が孤独だという思いが強くなっていき、自分の世界に浸るのです。
この本を読んで、異常に怖いんです。
自分の世界に閉じこもること、こころのもち方が不安定になることは程度の差こそあれ多くの人にあること。
自分は精神病にならないという自信はもてない。
冒頭3ページ目、
狂人とは、意識が健康でない者の総称であって、千差万別、度合いの差あり、
また間歇的に一定時間のみ狂う者あり、部分的に一つの神経のみ病んでいる
者あり、完全に正常な意識を失っている者などごくわずかだ。
・・・・・・・・どこまでが正常でどこからが狂疾か、度合の問題がほとんどである
以上、この線がはっきりしているべきだが、それも明確になっていない。
を読み返すと、私も含め、狂人とその予備軍は案外この世にあふれているのかな、と。
技術屋のかっこよさ
このシリーズはとにかくすきです。
山根一眞『メタルカラーの時代 9』(小学館文庫)
著者の山根一眞が、モノづくりなどに携わる技術屋のスペシャリストに対してインタビューする、対談形式の本です。(週間ポストに連載している企画です)
第9巻では阪神・淡路大震災関連の話題を多くまとめているので、いつもに比べると真剣度が多少高くなっています。それでもカタくはなりすぎず、いつもと変わらぬ面白さ。
震災ものでは、20ヶ月で阪神高速を復旧させた道路公団の方の話とか、被災地に55,000本も使われていながら1本も破損しなかった「耐震継ぎ手」の水道管を作ったクボタの方の話とか、とにかく知らないことだらけ、テレビでは見えないところでこんなことがあったのかと感動ばかり。
この企画が常に面白い理由の90%は、山根さんの好奇心、探究心と話術のうまさにあります。
普段は「こんなマニアックなことしゃべってもしょうがないよね」って感じであまりしゃべらなそうな技術屋さんが、自分の専門分野を理解してくれる人には心をひらいて、はしゃいでしゃべりまくってしまうという感じがほほえましいのです。
そして、全般的に「世界初」「世界一」「この技術は日本にしかありません」などという単語が多く、読んでいて気分よく、自分が適当に生きていることなど棚にあげて日本人であることに妙に誇りがもててしまうありがたい本なのです。
ちなみに震災もの以外では、仏像ファン、巨大建造物ファンにおなじみの牛久大仏の建立を請け負った、川田工業の方の話などもあります。120 メートルもの巨大建造物を立てる苦労話ですが、それが大仏であるというだけでなぜか笑えます。
蛇足ですが、183ページ、明石海峡大橋で使用したボルトを作った会社の方の顔は、生瀬勝久似です。
男の手料理はかくあるべし
サンケイ新聞土曜版に連載していたものらしいです。
まえがきにあるように、
私の男の手料理は冷蔵庫を開けた時からはじまる。
乏しい材料を前にして、いかにそれを生かすか。
らしいので、毎回紹介するメニューは非常に簡単なものが多いです。
いいですよ。『うにめし』の回。
生うにを買ってくる。それを暖かいご飯の上にのせ、ノリをまぶし、
わさびを入れ(しょう油も入れる)、かきまぜて食べる。
冷蔵庫を開けた時から始まるといっておいて、いきなり生うにを買ってきます。しかもそれをご飯にのせて食べるだけ。そりゃうまいはずです。
この連載、毎回文庫2~3ページくらいの分量なのに、この『うにめし』の回なんて、料理のつくりかた?に関する記述は今挙げた”生うにを買ってくる”から”かきまぜて食べる。”までの2行だけ。句読点もカッコもいれて合計57文字。短い。
それまでの2ページ半で何が書いてあるかというと、前回は一番大事な食材であるにんにくのきざみを書きわすれてしまった、なんてことを反省しています。
意外と男の手料理に潔さは求められないようです(苦笑)。
他の回も、目玉焼きをご飯に乗せただけの『コロンブスの卵丼』など、メニューそのものよりも文章の面白さに惹かれるものが多いかなと。
『東京タワー』で大泣き
仕方なく床に寝転がって読み始めます。
まずはいつもどおりクレイジーケンバンド小野瀬さんの懐食エッセイを読んで、リリー・フランキーの自伝エッセイ『東京タワー』にとりかかります。
第9回にしてついに最終回。
家で読んで正解。ずっと涙が流れっぱなしです。
前回までの展開から、今回オカンが死ぬのはわかっています。
でも、危篤状態のオカンがボク(リリー・フランキー)に何か言い残したくても声が出ないあたりから、涙ボロボロ。
オカンが死んだ後に集まってくる友達(ホントはボクの友達なんだけれど、みんなオカンの作った料理が目当てでボクの家に来ているので、オカンの友達なのです)の泣くさまにこちらも鼻水ジュルジュル。
このエッセイを読んでいると、
親は自分の幸せを犠牲にしても子供の幸せを願うもの
(すべての?)男はマザコンである
の2点を毎回思いしらされて、こんなに母親に愛され、母親を好きだといえるリリー・フランキーがうらやましくありました。
単行本にな ったら、まわりのみんなに買わせて、泣かせてやる。
カツラーの秘密
小林信也『カツラーの秘密』(新潮文庫)
20代からのカツラーである著者が、カツラーになるきっかけとか、カツラーになってからはそれがばれないようにかえって消極的な生き方をしてしまう心理とか、カツラーの見分け方とかあれこれを教えてくれます。
カツラーになるまでを書いた第一章にまず笑えます。
最大手AD社の新聞広告に育毛相談ができると書いてあったのを見て、休日の朝に思い切ってAD社に電話してみると、「専門の毛髪アドバイザーがうかがいます」と言われて、心の準備をする間もなく昼過ぎにはAD社の担当者が家にきてしまうのです。
なんとかカツラーにならず育毛で逃れたいと思う筆者に対し、担当者は筆者の頭をのぞきこむなり、「時間の問題です」と冷たい宣告。
その場で頭の型をとって購入申し込み書にサインさせて、言葉巧みに「最初に3枚買いなさい」と説得して合計100万円のローンにサインさせてしまうのですよ。恐ろしいことです。
ここまでの話の展開が速く、笑えるのはもちろんですが、体験者以外なかなか知らないカツラの話がわかり
、ためになることが多いです。
私、この本を読むまではカツラってどうやって頭にとめるのかも知りませんでした。
さて、カツラというのは特殊な商品で、利用者が利用してることを明かしたくないので、どこの製品が良いとか悪いとか、口コミによる評判などがちっともおきないのですね。
確かに考えてみれば、TV広告を大々的に行っている数社以外は社名さえも知りませんし、この数社の製品は良いものだと無条件に思い込んでしまいます。
で、著者はAD社のカツラに不満を持つのです。どうしても他社のカツラを試してみたいとおもいつつもなかなか実行に移す勇気がない著者は、あるとき意を決して他社をおとずれます。
そこで自らがその会社のカツラ利用者であるという担当者に会った時の描写は感動的です。
明るい声で入ってきたYさんのヘア・スタイルを見た瞬間に、僕の心はグラグラッ
と大きく揺れた。日本の高校野球のピッチャーが大リーガーの投手を目の前でみて
一発で心を奪われる・・・・・・そんな衝撃だった。
(わからない。ぜったいに自毛にしか見えない!)
カツラーの多くは常に自分がカツラーに見られないようにおびえながら生きているので、よいカツラに対する憧れはかくも大きなものですか。
この後著者はこの会社のカツラに乗り換えて今に至るのです。
私は頭の薄さを心配する必要がないみたいですが、そんな人でもカツラーの心理を理解するために十分役立つ本ですよ、これは。
そしてカツラーにとっては、塞ぎがちな気もちを楽にして、前向きにしてくれる力強い本でしょう。
なお、カツラーとは著者の造語で、カツラ利用者をさす愛称らしいです。
放送禁止用語には該当しませんとのことです。