子供は親の生きがいであり、希望と喜びを与えてくれるものです。それなのに、親を悲しませたり、親の顔に泥を塗る。ついには、親を絶望の淵に突き落とすようなことまでもする――これはいったい、どうしたことなのでしょう。

 子供は善きにつけ、悪しきにつけ、親を通じて人生に対する心得を学んでいくものであります。そうなると、親自身の心の持ち方がとても大切になってくるのです。

 子供は、成長するにしたがって、親との意見の食い違いから 「聞いてくれない」 「理解してもらえない」 と殻に閉じこもり、心の捌け口が思わぬ結果を引き起こすことがあります。親から見ると衝動的なように思えますが、何事においても 「ある日突然」 ということは絶対に無いのです。つまり、物事の起こる原因となる元が必ずあるのです。

 そこで、親としての大切な心得について

 

「自分の、親に対する心の持ち方はどうだったでしょうか――

 

ここが原点であり、物事の判断の元であり、出発点なのです。何故なら親という存在なくして、己の存在は決してありえないのです。

 親というものは、実に有難いものです。されば、この世へ生み育ててくれた親に対し、どうであったでしょうか。親というものは、わが子を自立へ向けて、我が身のことは形振りかまわずに、どれほど愛情を注がれたことでしょう。もし仮に、その頃母親が大病したり、事故にあって亡くなっていたとしたら、今の私たちはこの世に生まれることはありませんでした。私たちがこの世に生を受けるにあたって出産は、母子にとって常に死の危険がともないます。それをお母さんと共に乗り越えたのです。

 生まれたばかりの私たちは、一人では何も出来ませんでした。でも、すぐに私たちを抱き上げて、産湯をつかわせ、暖かい毛布にくるんで寝かせてくれました。

泣いたというと、おっぱいをくれたり、ミルクを飲ませ、離乳食を作って食べさせてくれました。そしてオムツを替えてくれたり、お風呂に入れてくれたり、服を着せてくれたり、そのお陰で、言葉の意味もわからないのに一生懸命話しかけてくれました。言葉というものを覚えることができたのです。服を自分で着ることも教わりました。ボタンを掛けられるようになり、お風呂にも一人で入れるようになったのです。

 私たちは、こういうことをすっかり忘れて、一人で大きくなったような気になっている場合がよくあります。残念なことに、このようなことを思い出せる人は余りいないが、そういうことがあったことを、あらためて思い起こしてみることも大切なことではないでしょうか。

 

「子を持って知る親の恩」

 

子供は神様からの授かりものといいますが、誠に仰せの通りだと思います。親は生んだという覚えはあるものの、体の何一つ手を加えたという覚えの無いことが事実です。子供がほしくても授からない人達が沢山いるのです。夫婦にはなれても、子供を授けて頂けねば親にはなれません。 「お産」 とは、「子供・母・父」 この三つの誕生を祝う意味があるのです。小さなわが子を胸に抱いたとき、初めて親としての実感をするものです。親が子供を育てるために、どれほど苦労してきたか――その頃になってやっとわかってくるのが、親の恩なのです。その恩を決しておろそかにしてはいけません。親不幸した者が我が子に親孝行を望む資格はないのです。

 人生に浮き沈みは付きものです。たとえ生活が苦しく、親に十分なことができない時でも、せめて、親に感謝と喜びの言葉を掛けていくことが大切であります。その姿を子供はじっと見ているものであります。

現在の教育で最も欠乏している 「親への孝心」。この 「親へ親へ」 の教育が親子の絆をより一層太くしていくのです。ところが現在では 「子供へ子供へ」 子供の将来無視すること甚だしい限りであります。

 私たちの住む社会にも同じことが言えます。人それぞれに立場とか、役職とか、地位というものがあります。しかし、いきなりその地位や役職に就くことは決してありません。これらの地位に就くには 「師匠、棟梁、恩師、上司」 といった、目をかけ、芸や技術を磨き育ててくれた方がいたはずです。そうした人は全て 「親」 に当たるのです。その親の恩を大切にすれば、親から信頼されるのは道理です。反対に親の恩を忘れて、恩

のある親を粗末にした人は、必ずその結果が我が身に撥ね返ってくるのです。

あなたは、親に対する心の持ち方はどうだったでしょうか

 

「配偶者に対しての心の持ち方について」

 

 妻が夫を軽んじたり、侮ったりするような心は厳に慎まねばなりません。また、夫が妻を卑しめたり、裏切ったり、軽侮する行為は、ひいては、我が子へとつながっていきます。子供の人格を尊重する、意思を大切にするなどと言いながら、親を軽侮していて、どうして真っすぐに育てることができるでしょうか。

 世間には、よその主人と自分の主人をいちいち見比べて、自分の主人を見くだすようなことを、子供の前で平気で言う人がいます。

「お父さんは、無知で甲斐性無しなんだから・・・」 と夫を軽侮し 「だからこの子だけは――」 と、やっきになって子供の教育に打ち込んでいる人がいます。しかしそれは、親をばかにする心を知らず知らずのうちに植えつけ、子供を非行に走らせることになりかねません。

何故なら、子供にとって 「父親」 というものは、絶対なものと信じているのです。それなのに母親は父親を見くだしたり、粗末な扱いをする。日々そんな言葉を、子供はどんな思いで聞いていることでしょうか。

そこからうまれるのは父親に対する不信と、父親を見くだす母親に対する不信、そうした両親から生まれた自分自身に対する不信――。これではどうして子供が真っ直ぐに社会に巣立っていけるでしょうか。

 子供を温かい人間に育てる上で大切なのは、夫婦仲尊敬し合うことです。そして、内も外も陰ひなたのない行動をとることが大切であります。「うちの子は、家の中ではおとなしいのに、外では悪い仲間に誘われる」 などと腹を立て怒る前に、自分の生活の内と外に、大きな陰ひなたはないか。内緒の遊びや、良心に恥いる行為に手を染めてはいないか。子供の前だけ、謹厳を装ってはいないか。妻に対し、又は夫に対する背徳の行為なども、そのまま子供への軽侮に繋がっていくものです。すこやかな子供の将来を本当に願うのであれば、陰ひなたのない心がけが大切であります。

 近頃では、「道徳教育の復活」 を唱える声が高まっているようですが、その前に、親や大人たちが本当に道徳を持っているのかが肝心。

現在社会世相は、モラルが破綻しております。「大人社会は何でも有り」 こうした大人社会が、子供たちの姿として反映しているのです。子供の心は実に繊細なのです。親や大人の心を見透かしているのです。いくら善い事を掲げても、肝心な道徳を守らない大人がいたのでは何も変わりません。善い心というものは、善い行いをすることにより善い心が身に付くのです。

 もし、不幸になっていく子供がいるのであれば、それは私たち親や大人の責任と思わねばなりません。

よく、子供の前で得意になって先生を批判している親がいますが、教育の立場にある先生を、肝心な親が見くだしていて、どうして子供が尊敬できるでしょうか。学校教育と家庭におけるしつけとを混同し、何でも学校や先生に責任転嫁するのであれば、親という立場は宙に浮いてしまうのではないでしょうか。

 私たちの人生には、つまずきや転倒はつきものです。その別れ道に立って、選択に迷い苦しんでいる人が大勢います。そんな時に、「どうでもこの人に立ち直ってほしい」 と思うあなたの真心による一言が、悪への道から善の道への水先案内人になります。

 子供の幸せを願わない親はいません。しかし、その幸せを願う思いに反して、いつの間にか子供が、また親自身が不幸への深みにはまっていく姿が多々見られます。

それは何故なのでしょうか。

生き甲斐のある明るい人生へ向けて、ご一緒に話し合って見ませんか。