~赤信号は、青信号へつながっているのです~

人には、それぞれに悩みがありますね。それぞれに個人差はあるものの、決して悲観することはありません。誰にも 「人生の節目は」 付きもの。大事なことは、悩みを不運と受け止めるか、それとも好機と受け止めるかによって、大きな差が出てきます。何故ならば、受け止める時の心が種、物事の出発点となるからです。

 例えば、ヨットの帆のように、あやつり方次第で東にも西にも進むように、あなたの人生もあなたの考え方ひとつで、幸福にも、不幸にもなるのです。つまり、喜びや楽しみを引き出すのも、あなた自身なのです。また、不幸や不平不満の心を引き出すのも、あなた自身なのです。あなたが 「もうダメだ」 と、あきらめた時から、その瞬間からダメになる。 「よくなる、でも・・・しかし」 と心の片隅で思っていたなら、あなたは絶対によくならないし変われないのです。あなたの悩みは、あなた自身のもので、あなた以外のものが変わる訳には行かないのです。

 私たちの心は、誰も平等に、自由に使えます。なれば、せっかく自由に使うことの出来る心を、八方塞の袋小路を選ぶか、それともどんな状況の中でも幸せと考えるかは、あなた自身で決められるのです。

本来この世には、不幸というものは存在しないのです。もし不幸だと異議を唱える人がいるのならば、それは自分を人と比較し、自分の不足している部分、欠けている所を探したり、無いものねだりや、人と同じ事が出来ないからと愚痴をこぼし人を咎めているのであれば、それを不幸と思っているあなたの心に問題があるのではないのでしょうか。

 「人は時計の仕組」 のように、人の住む社会にはそれぞれの役割というものがあって成り立っています。人間もそれぞれ顔が異なるように、人格や個性も皆違いがあります。私たちの体の中の仕組みもこれと同様に、胃や肝臓、腎臓、心臓など、それぞれの位置はみな違っていても、みなそれぞれの異なった重要な働きをしているのです。また、大工さんや運転手さんなど、色々な人がいて社会も成り立っているのです。

 いつの世にも、何事にも喜べる人と、色々な理由をつけて喜べない人がいます。喜べる人は、物やお金、健康など、全てに恵まれ何不自由ないからなのでしょうか?

 ならばあの 「ヘレンケラー女史」 はどういう生涯を送ったのでしょうか。目が見えない、耳が聞こえない、話すことも出来ないという三重苦を背負ったのです。そのヘレンケラー女史が点字で残している言葉に 「私の人生は幸福に満ちていた」 と言っているのです。私たちは身体が不自由だといっても、決して不幸とは限らないのです。それを不幸と思い込むところに悩みや悲しみがあるのです。

 

心通り、種通りの世界

 「見える世界の背後には、目には見えない世界がある」

病気をはじめ、様々な悩み事となっているのは、目に見えない 「心」 が元 「原因」 となっているのです。「怖い」 と思うと、知らず知らずのうちに、脈拍が高くなり、冷や汗をかき顔も青ざめてきます。つまり、心の動きが身体に一定の影響を与えているのです。従って、心一つが物種となって様々な環境が現れてまいります。

例えば、善い事を思わない人に、決して善い行為はなされません。善い行為がなされない人に、善い結果は決して現れてきません。感謝の心の薄い人には、喜べない物事が巡ってくるのです。人を喜ばせたら、嬉しい喜び事が必ず巡ってくるのです。「心一つで鬼も蛇もでる」 つまり頭の中で描いていても、種を蒔かなければ決して何も実現しないのです。あなたがカボチャの種を種を蒔けば、カボチャがなるし、りんごの種を蒔けば、りんごがなるのです。

 日頃自分の思っている事が、種 「原因」 となり、自分の体や、周りの人々に及んでいくのです。誰かがあなたに病気を持ってきたわけではないのです。

 「病気になったら困る」 と、あなたが病気のことをいつも気にしているから、病気という環境があなたに近づいて来るのです。また 「あんな奴、こんな奴」 と、人の悪口や不満や愚痴をこぼしていますと、いつの間にか、自分の想像していたような人ばか

りが寄ってくるのです。

 折角の人生なのですから、ストレスを溜め込まずに上手に付き合って、あなたの味方につけては。例えば 「耳で聞いた事を和になる聞き方」 「目で見たことを和になる見方」 「言葉を通して和になる話し合い」 ができるようにしたいものです。日頃、私たちは言葉を聞いて、物事を即判断しています。近頃は言葉による 「トラブル」 が社会問題にまで発展しています。

そこで、 「楽しく聞いて、楽しく見て、楽しく会話」 ができるように心がけたいものです。よく手品師の台詞に、種も仕掛けもありませんと言って、鳩を出しますが、そこには元々鳩という種があったということです。そこが芸の見せ所なのです。

そのように、種があるからこそ結果というものが現れてくるのです。至って原理は簡単なのです。あなたが笑顔を求めるのなら、まず先にあなたがニコッと笑顔を見せることです。その笑顔の種を蒔き惜しんでいると、笑顔を見ることは出来ないのです。悩んでいる方というのは、そういうところがありませんか?

 自分のことは棚に上げて、周りの人が変わることを願っている。

「苦しむものには苦しむ姿があり、喜ぶものには喜ぶ姿がある」 全て原因があっての結果なのです。何事においても人に求めていては、悩みはいつになっても際限が無いのです。

 そこで 「視点」 視角を変えて見ると、この世の中には、何一つ無駄なものが無い。そして誰一人として害になる人も存在していない。もしあると思うのであれば、それは我が身にとって 「損か得か、好きか嫌いか」 という自分中心の 「モノサシ」 で計ってしまうところに無駄なことが起きてくるのです。そしてその 「モノサシ」 で夫や子供を見る。また人々や社会を見るから、こんなにありがたいすばらしい世の中がつまらなく見えてくるのです。

 そのために死を選択する人がいますが、実に愚かなことです。世の中には生きたい、生きたいと願っている人が大勢いるのです。一人の命を救うために、必死になって頑張っている人がいるのです。命は、どれほどの財産を積んでも買うことの出来ない尊いものなのです。死は自ら探さずとも誰にも訪れるものです。

 病気や悩み事も結構なものです。身を病んでみて初めて、健康のありがたさや、周囲の人の真心の温もりに気づくことが出来ます。病んでいる人の痛みもわかり、人への思いやりや、いたわりの心が芽ばえます。そして何よりも、人を心の豊かな感性へと導いてくれる妙薬と感謝の心を持って、日々送ることを心がけていますと、嫌な人と思っていた人が、みんな仏様のように思えてくるのではないでしょうか。

 私たちは生まれてから死ぬまでの間、人との関わり合いの中で生きていくのです。大切な事は、人との出会いを通して何を得たか、何を失ったかを一つ一つ点検し、確認し、人生の糧とすることではないでしょうか。

 「人との出会い」 これは大切ななのです。「病気や悩み」 も、これはきっかけのようなものです。そのきっかけが基となって、人と人とのつながりが出来るのです。そんなきっかけを通して、色々話し合える場がもてるとすれば、なんとすばらしいことではないでしょうか! それは、「七十億の中の出会い、奇跡」 なのです。

 そんなあなたの背負っている心の重荷を下ろすことに、少しでも、お役に立てることを、とても嬉しく思います。

 そしてあなたが、かつて生き生きと輝いていたあの日を、一日も早く取り戻し、あなたの大切な周りの人達に、明るいあなたの笑顔を見せて安心させてほしいと願っています。

 

****声こそ肥****

 本当にわかれ道に立って、その選択に迷って苦しんでいる人が、この世にはいっぱいです。一声が悪への道へも、善への道へも通せんぼになります。人生につまずきや転倒はつきものです。肝心なことは、その時、その人の側に、どんな人が居るかということです。つまずきが敗残につながる場合も飛躍への糸口になる時も、ここにあります。よい言葉を常に出すけいこをしましょう。どんなに多くの人々が、あなたの一言で助かっていくことでしょう。

合掌