すべての人は自分が主人公の物語を生きています。
自分の目を通して見たもの、
自分の五感を通して感じたこと、
それを「世界だ」と言います。
自分の世界は自分にしか分かりません。
ある人はそれをダンスで表現する。
ある人はそれを音楽で表現する。
私はそれを絵と文章で表現する。
私の目で見たもの、
五感で感じ取ったもの、
私の物語を、楽しんでいただければ幸いです。
このブログを始めたとき、いちばん最初に書いた記事の文章です。
今も変わらず、そう思っています。
それぞれ、自分が主人公。
堂々と、胸を張ればいい。
なのに、ブログという狭い世界の中でさえ
”自分”が分からなくて不安で
”何者か”であろうと必死でもがいている人が
なんと多いんだろう。
”何者か”だと、人に認められたい人は、
なんて苦しそうなんだろう。
様々な”スピリチュアル”にお金が動いている。
それを施す側も、また依存している。
自分が特別な”何者か”になった気分に酔って
その世界の外に出ようとしない。
・・・
中学校での生活を振り返ったとき、
なんてしょうもないルールを必死で守っていたんだろうと、
呆れて笑ってしまう経験が誰しもあると思います。
先輩しか通れない階段。
先輩しか使ってはいけないトイレ。
先輩しか開けてはいけない第一ボタン。
先輩は怖かったけど、
卒業したら、もう、どうでもいいね。
そう、
その世界から一歩出たら、どうでもいいこと。
同じことを、大人になっても繰り返している。
苦しいなら、一歩出てみたらいいのに。
なぜそこに依存するのか。
なぜなら、そこにいれば自分が”何者か”であれるから。
自分が”何者か”であるという錯覚の安心を得られるから。
錯覚の安心を本物だと思って
必死で守ろうと苦しさに耐える姿を、
自分で一歩外から眺めてみれば
それはそれは滑稽だろうに。
俯瞰の視点を得るのはそんなに難しいことかな?
・・・
占星術もオラクルカードも新月と満月の力も
受け入れてみたら面白いし本物だと思いました。
でもそれらは手段の一つ。
いわば、
『障子の穴』
障子のむこう側を見たくて、穴を開けて覗くようなもの。
ひとつの穴に依存するなんて滑稽でしょ?
そして私は体感を持って知っている。
こちら側と、むこう側は同じ。
これを読んでただいた方は、ご自身のイメージの中で私と同じ体験をできていると思います。
こちら側を知っているのなら、それはもう、むこう側も知っているはず。
そして、本当に知りたいことはむこう側にはない。
本当に知りたいことは90度、
自分の内側にある次元。
自分の中にいる、青い鳥。
必死で”何者か”であろうとむこう側を探していたのに
すでに、自分は自分が求めていた”特別な存在”であったことに
内側で気付いてください。
主人公は自分だと、どうぞ胸を張って。
私が常々思っていたことを、私が書くとこんなにキツイ書き方になるけど、
この方は優しさ溢れる表現にしてくださっています。