青桐とピアノ | ミナミのブログ

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のんびり、、まったり

 

2003/07/06 (Sun) 横濱俳句倶楽部の文章から

今日は1823(文政6)年に

シーボルトによって日本にピアノが持ち込まれた日なのだそうだ。

私が通っていた小学校は、麒麟麦酒の工場があったところで

学校の脇には、記念公園がある。

通っていた頃の校舎は、三階建てで、その脇に講堂があった。

講堂には大きなグランドピアノがあり、

当時の担任は、このピアノについて

何処かのお嬢さんが亡くなるまで弾いていたもので

今でも夜になるとピアノを弾きにやってくる、というお話をして、

子供達を怖がらせていた。

三階建ての校舎に囲まれるように建つ、

とても屋根も高い講堂は、昼間でもひんやりとしていて、

確かに、何かいそうな、雰囲気を持っていた。

そんな怖いお話しの印象ばかりが勝ってしまったようで、

私は、このピアノが弾かれている所を見た記憶はあまり無い。

唯一、鮮明に残っているのは、同級生の女の子が

真っ白なリボンをして、合唱コンクールの伴奏をした場面だろうか。

その彼女はとても美しくて

長い髪に、大きなリボンをしている、無口な、大人っぽい子、だった。

彼女は休み時間になると、いつも、本を片手に

校庭の脇に植えられている青桐の木に寄りかかっていた。


その彼女は、ショッキングピンクの鮮やかなスーツを着て

誰よりも賑やかにお話ししていた。

中国の古い書物には鳳凰は梧桐林に住み、竹の実を食べている

と書かれているものがあるそうだが

彼女は青桐に寄りかかりながら

その胎内に鳳凰の片鱗でも住まわせたのだろうかと思った。

他の同級生から、何処かのテレビ局の女子アナをされていた、と教えられた。

鮮やかなスーツを着た彼女は、一渡り皆に声をかけると、風のように消えていった。

あんな風になるとは思わなかった、そう思って

しかし、ではどんな風な女性になることを想像していたのだろうかと思った。

彼女が誰よりも美しいことに違いは無かった。

青桐を用いた諺に、一葉落ちて天下の秋を知る、というものがあるが

その時の私は、私の見知らない場所でも

現実の時が、しっかりと流れていることを、改めて実感した。

青桐は、俳句では、梧桐と書き、あをぎり、ごとう、と読みあらわし

夏の季語になっている。

講堂のピアノは、同じ小学校を卒業した母から

実際は業者から購入されたものだと教えられた。

 

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私の母校にはもう一つピアノの話が有る

 

私が通っていた中学は以前私が通う小学校の中に存在し

戦後、中華街の端に有った小学校の校舎に移った

 

小学校も、中学も、当時はスロープがあり、冬にはそのスロープを下って地下まで

教室の達磨ストーブ用の石炭が入った入れ物を取りに行っていた

 

中学にはそのスロープを上がりきった先に階段があり、階段の上に音楽室が有り

その手前の通路に一台のピアノが有った

 

当時の教師の話では嘗ての小学校時代に寄付されたものだったようだが

後に、それが、中華街に住む周という方の作ったピアノで

横浜の堀ノ内町というところで作られている、という話が流れて来た

 

当時その周という方のことが新聞記事になっていたので、それが素になっていたのか

実際に寄付されたものなのか、今では分かりえない話

 

その当時、横浜には駐在米軍兵向けのラジオから流れる歌が流行り、

歌詞を覚えたい先輩たちは三省堂のコンサイス英英辞典で単語を見つけ

繋げて歌っていた

 

当時は辞書は買うのではなく先輩から貰うのがステータスのようなものが有り

それぞれに年季の入った辞書を持って懸命に単語を調べている先輩たちの姿に

もの凄く年齢差を感じていたが、実際は、中三と中一の差だったのだ

 

そうやって歌詞を覚えた先輩が一人、そのピアノの置かれた場所への階段の途中の

踊り場で窓の外を見ながら悲惨な戦争を口遊んでいたのだが、

何を思ったのか、ピアノの蓋を開けて弾き出した

 

ピアノに詳しい方なら分かるだろうけど、調律のされてないピアノを弾いても

希望通りの音は出ない

 

その上音符さえなく、聞き覚えで弾くという

 

そんな状況で有りながら、その悲惨な戦争の旋律はしっかりと聞くことが出来た

 

ただ、問題は、当時の中学を経験した生徒なら分かるだろうが、生徒がイレギュラーな

行動をすれば、鉄拳制裁の対象になる

 

音を聞いただろう教師の足音と、誰だ?の声に慌ててピアノを閉じて

窓際に向かって

The cruel war is raging と歌い出す先輩を見上げているところにやって来たのは

戦争に行っていたことを自慢する、最悪の生徒指導の教師

 

私と先輩を見ると、誰がピアノを弾いたか聞くので、知らないと答えた

 

先生の空耳ではと言えるような時代では無かった

 

階段を駆け上がり、その教師が先輩の背中をたたくと

気持ちよく歌っていた先輩は驚いて大声を出して飛び上がった

余りの驚きに気をそがれたのか、敵国の詩に恐れをなしたのか

誰が、と言いかけて、聞き違いかなと呟きながら教師は帰って行った

 

古いピアノは埃に塗れていて、確認すれば手形が残っていたと思う

 

その先輩は後に英語の弁論大会で優勝し

IQの高さで新聞に載るような人物だと知ったのは

私が高校性になってからだが、その時、私は、ああ、そういうことかと悟った

 

学校の名誉につながる人物に一教師が鉄拳制裁など出来る訳がないのだと

 

悲惨な戦争を聞くたびにその時の状況が浮かんでくる

 

因みに河東碧梧桐という俳人は、あまりにも病弱で、常に顔色が青かったために

正岡子規に碧い梧桐(あおぎり)碧梧桐と名付けられたとか

 

偉大なる文人も割といい加減な気がしてくる