箒草 | ミナミのブログ

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のんびり、、まったり

す■ 2003/06/16 (Mon)横浜俳句倶楽部ほのぼのとから


待ちぼうけ 待ちぼうけ もとは涼しい黍畑
いまは荒野の箒草 寒い北風 木のねっこ

北原白秋作詞、山田耕筰作曲の童謡、待ちぼうけ、の一節。



ララミー牧場や、ローハイドを見ていると

赤い土埃の立つ道に、コロコロと、枯れ草の塊が転がっていくシーンには

必ず穏やかならぬ事件が潜んでいる。

今は荒野の箒草。

十年ほど前、お隣の空き地は、茅の草原だった。

今の頃になると、一面の緑が風に波を打ち、

秋になると、その根元に、無数の虫を住まわせて、

月の美しい晩には、川のせせらぎのように、その虫達の鳴き声が絶間なく聞こえて、

そん風情をのんびりと見ているのが好きだった。

その十年ほど前に、お隣の空き地が、畑になった。

何処か遠方から耕しに見えるようで、なかなか捗がいかないが、

それでも、やがて、胡瓜や茄子の苗が生え揃い、絹さやの花が咲き出した。

ところが、せっかく結んだ実は、その主の来ないうちに

すっかりと成長してしまい、胡瓜などは

ある日突然、まっ黄色の大きな物体になって

我が家の人間を大いに驚かせて、そして、また土へと還ってしまった。

幾度かそんなことを繰り返すうちに

当の主は、収穫の時期が長いものをと、思われたのだろうか

緑の丸い植物を植えていかれた。

あるとき、その植物が、全て、美しい緋色になっていた。

数日見とれて、そして忘れた頃、寒風の吹き出した真夜中

我が家の前を、カサカサと、何かが通り過ぎていく音がした。

それは、お隣の、その緋色の植物が枯れて、風に運ばれている音だった。


その植物を図鑑で調べると、箒草、とあった。

まさしく、白秋の書いたとおりの情景の畑から

幾つもの塊が、コロコロと転がっていく。

まさか、インディアンは攻めて来ないだろうが

不埒な人間の魔が差してはいけないので、

夜中の道路に、その枯れ草たちを拾い集めに出て行った。

集めた枯れ草は、その畑の隅に纏めて、重石を置いて、そして、終わった


何故ならば、その枯れ草から、とんぶり、という草の実が採れると

図鑑に書いてあったからなのだ。

とんぶりとは、江戸時代から秋田県比内地方に伝わる、

キャビアに似た食べ物なのだとかで、外注の方からも、何度か頂いたことがあった。

この草の学名、Kochia scopariaは、

ドイツの植物学者のウィルヘルム・ ダニエル・コッホの名と、 

scopariaの、箒のような、という言葉から来ているのだとか。

その名の通り、この草は、洋の東西を問わず

箒として使われていたのだそうだ。

俳句の季語には、とんぶり、箒草の実、というものはあっても、

箒草だけでは、私の持っている季語集のどれにも、見当たらない。

そして、とんぶりは、秋の季語になっている。

お隣の畑の主は、今年は一体どんなものを、

楽しませてくださるのだろうかと、内心楽しみにしている。

 

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このとんぶりを長い間故郷から取り寄せて届けてくれた外注の人のふるさとに

娘に誘われて今年の二月に出かけた

 

飴っこ市という祭りがあり

雪の中に花のように枝に結ばれた色とりどりの飴が

それは奇麗だということで

雪中行軍のような重装備で行ったのだが

今年は例年にない雪の降らない市だったようで

たぶんかつては大いに栄えた街だったのだろう、

面影がそこここにあったが

誠に申し訳ないが

廃線になって少しばかり残る線路とか廃墟になった店とか

何故か寂しさに溢れていて

嘗て箒草がまるで狸のように車道を巡った姿が彷彿されて

 

自然の中で行われる祭りは、その時の気候の状況で変わってしまうので

主催する側も大変だろうなと思いつつ帰宅したのだが

家に戻り、カメラで写した写真を見ると、寂れた街や線路が不思議な郷愁を誘い

祭りの広場の建物もそれなりに歴史のある建物なのだろうと思えて

遠い昔からの祭りに集う人々の声が聞こうえそうなそんな気がした

 

どんな作物が生るのかと楽しみにしていた我が家も既に土地を離れ

お隣には家が建ち、そこに畑が有ったことを知る人はいない

 

おとぎ話ならば、どんとはれ というところだろうか