傘 | ミナミのブログ

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のんびり、、まったり

破戒僧(はかいそう)を追放する際、傘一本だけ持つことを許したので、

僧侶(そうりょ)の追放をいう語

 

唐傘(からかさ)一本 破戒僧が寺を追放されること

 

寺を追放される時、唐傘を一本だけ持つことを許されたところから。 

類:●出家一本傘

 

咸臨丸が万延元年、遣米使節の一行を乗せて帰国した

 

その乗船客が持ち帰った土産

 

通弁(通訳)ジョン万次郎のパイプ

福沢諭吉の持っていた写真、

船長勝麟太郎の西洋傘

 

万次郎のパイプは

「其の雁首たるやお椀の如く魂消えた紅毛人の煙管」

江戸っ子はあんなものでキザミを吸ったら、尻から煙が立つと揶揄されたそう

 

諭吉の写真については、彼国での美女とのツーショットにあらぬ疑いをかけられたと

「福翁自伝」に記されている

 

勝麟太郎、後の勝海舟

 

麟太郎はこの傘を城内の奥座敷で披露するのだが

広げたその様子を見ていた人々の中の老中安藤信正が

まるで蝙蝠と発したことで、蝙蝠傘と呼ばれるようになったとか

 

当時の日本の傘は竹と和紙で作られた蛇の目傘と番傘があった

 

蛇の目は美しい文様や色合いで作られた和傘で

雨降りに子どもを学校に迎えに行くお母さんが挿したりして

 

番傘は竹の骨組みと厚い紙に荏油(えごまで作った油)が塗られていて

古い旅館に行くと、旅の一興として用意してあったりする

 

 

臨太郎の持ち帰った洋傘は、その和傘よりずっと軽く、骨組みも竹ではないから

丈夫であったそうで、何事にも器用な日本人がさっそく作ったそうだが

髷を結ったお侍さんにはその骨組みが邪魔になり、あまり流行らなかったとか

 

髷は侍の魂ともされるもの

その髷が触れてしまうなど無礼千万ということだったのだろう

 

余談だが明治維新で文明開化として髷を落とし

散切り頭を叩いてみればと言われた頃

男の人達は髷の代わりに挙って帽子を被るようになったとか

 

明治や大正時代の写真の中の男の人が皆帽子を被っているのは

その習わしからなのだとか

 

思えば私が子どもの頃まで、元町にも帽子を仕立てる店があり

夏には麻のスーツにパナマ帽という姿が定番だった

 

祖父もまた学校の行事には山高帽を被り、ステッキを片手に携えて

白黒の映画に出てくる俳優みたいな恰好をしていた

 

一方で、丁稚とか下働きの人が被っているハンチングは、挨拶をするときに

帽子をとることで一層好感度が上がるようにとのことだったとか

 

昭和の時代、国旗掲揚の際はその帽子を両手で外し

片手で胸に宛てて持ち

もう片方の手を気を付けの姿勢にしてまっすぐ前を見て立っている姿は

子ども心にも美しく見えた

 

蝙蝠傘といえば、関東大震災の折り、港で通訳をしていた祖父は

避難のため港を出た船に乗って沖まで行ってしまい

数日間帰らなかったそうで

その後、横浜の大空襲の時には蝙蝠傘と、祖母が宮城からは賜った一振りとを

間違えて持ち出したとかで、孫の私にもわかるほど祖母から冷遇されていた

 

因みに福沢諭吉の福翁自伝には

アメリカに逗留中、艦長(木村摂津守)が玩具(おもちゃ)

半分に蝙蝠傘(こうもりがさ)を一本買った。

珍しいものだと言ってみな寄ってひねくって見ながら

「如何だろう、これを日本に持って帰ってさして回ったら」

「イヤそれはわかりきっている、新銀座の艦長の屋敷から日本橋まで行く間に、

浪人者に斬られてしまうに違いない

まず屋敷の中で折節ひろげてみるより外に用のない品物だ」

と書かれていて

 

小栗上野介も同様に郷里の菩提寺で披露したという記述があるそうだから

旅の一行には洋傘はとても珍しいものだったのは確かなようだ

 

その洋傘が日本で流行り出したのはペリーが横須賀に来たころからだそうで

明治元年には輸入が開始され、四年後には日本製の洋傘が作られているとか

 

賢い日本人は再び洋傘を折りたたみにしたり、晴雨兼用の傘にしたり

ワンタッチで開くようにしたり、と、改革をしていくのだが

ご他聞に漏れず、バブル華やかな頃にはもっとお金を儲けたいという業者と

もっと安いものが欲しいという消費者との利害が一致し

工場が海外に行ってしまい、ノウハウを得たその地の人により

ますます安価な傘が現れて…。

 

私は最近、晴れた日も杖の代わりにもなるので

黒い男性用とされる傘を愛用しているが

女性のピーク時の平均身長より5センチくらい高い私は

願わくば女性の傘ももう少し大きめなものにして欲しいと思う今日この頃

歳をとると華やかな傘のほうが交通のためにも安全と言われていることだし

 

そういえば雨降りお月さんは

なぜ唐傘という番傘を挿してお嫁に行ったのだろうか