中華街 | ミナミのブログ

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のんびり、、まったり

私が通った中学は中華街の外れに有った

 

製氷会社の先のバイク屋さんの並びに消防署が有り、小さなお堂があり

元町商店街の喜久屋の先の前田橋を渡り、鱶鰭解体倉庫の前を通り

解体倉庫では鰭を切り取るために大量の鱶が運び込まれて

反対側はバキュームカーの溜まり場だった

 

そのためにその場所を通ると真夏の漁港のような匂いがして

新一年生の頃はハンカチで口を押えていたが

学年が上がるにつれて気にならなくなっていた

というより、この道をあまり通らなくなっていた

特に男子は途中の細い道を抜けて、山下町公園から今の大世界のほうに

抜けて、その先の谷戸橋を渡る

この先の坂はコクリコ坂からのモデルになった谷戸坂があり

登りきると港の見える丘公園になる

 

その手前の横浜地方気象台には、母の同級生の両親が住み込みで勤めていて

母の友人はそこから学校に通っていたと聞いた

 

なので映画公開された時私は勝手に母の知人を主人公に重ねていた

 

大正九年生まれの母やその人たちがどんなふうに青春を過ごしたのか分からないが

生まれてすぐに関東大震災に遭い、世界恐慌を経験し、

戦争を経験した母たちはとても楽観的だったが、母が亡くなるその直前まで

母たちが小学校の頃からの友人たちとずっと付き合いを続けていた所を見ると

平和の時代に生きて来た私たちには分からない、深い部分での共通の思いが有ったのだろうと思う

 

団塊の世代にも書いたが、母の通っていた女学校は私の通っていた中学の並びに有り

母は麦田のトンネルを抜けてその女学校に通っていたのだが

大空襲の後に通学すると、男の人たちが掘割から遺体を拾い上げ

積み上げ、土手に並べて火葬をしている様子をみたとか

その時、母は何の感情を抱くことも無かったと話していた

 

何の感情も抱けないほどの恐怖の経験は幸いにして私はまだしていないし

この先、二度と日本の誰にもして欲しくないと思う

 

その私達が通う中学の周辺は嘗て居留地といわれた華僑の人が住む地域

中国、台湾、そして香港、日本人でない同級生は常にパスポートを帯同している

そのような子がクラスの三分の一以上いる

皆日本名を持っているが、卒業証書は本名で書かれる

 

中国の新年やお盆の頃は皆本国に帰ってしまい店は閉まってしまう

 

もう一つ、台湾と中国の学生の間では思想闘争があり

それは日本の学生運動よりはるかに過激だった

台湾系の学校の周りにはコンクリートの高い塀が巡らされ

ペンキで赤く塗られていることも、命までも奪い合い

そんなわけで翌朝道路にヒト型のマークが付けられて、車が焼かれて

通学路が変更されることも珍しくなく

 

店の人は日本人だとわかると、何を聞いても没有(メイヨー)と答える

店の中に入り、探し出し、これです、というと、金額を言い

そのまま渡してくる

 

中学時代は日本人であるがゆえに売りたくないのかと思っていたが

大人になり、足繁く買い物に行くうちに単に挨拶のようなものだと知った

そのメイヨーを連発していたお店の人達は夫や娘と行くと

まるで家族のように親切にしてくれた

 

食べ物屋さんもまた同様に、観光地の割には観光客に無愛想で

それが理由なのか、世の中の景気が良くなり始めた頃、中華街は急速に寂れていき始め

多くの人がアメリカに新天地を求めて行ってしまった

それと同時に甘栗売りが増え始めて

 

嘗てはお店の外で食べ物を食べることを禁じられていた街が食べ歩きの街になった

それでも中華街の人たちはマンション建設予定地に媽祖廟を作るというように

中華街の景観を守る努力を続けている

 

夫の会社がいくつかのお店の外観や内装、中華門

そして山下町公園の四阿の工事を請け負ったという縁もあり

変わっていく街が寂しくもあり廃れていかないことが嬉しくもある

 

みなとみらい線の元町中華街駅が出来た時

中国と台湾、そして元町商店街が合同でお祝いをしたことが有った

多くの民族衣装や。南方、北方の獅子が同じ舞台で舞い

私の子ども達も民族衣装でパレードに参加した

こんな風にみんなで仲良くと思いながら、その年以降の中華街に

日本の業者が参入していくことを限りなく残念に思う

 

母と行った中華街に馬車が走っていたことや

纏足のおばあさんがいたことや中華服のおじいさんがいたことや

お店の入り口に袋に詰められた烏龍茶がぶら下がっていたことや

早朝にお粥屋さんの前に林檎箱を逆さまにして大人の人に交じってお粥を食べたことや

自転車に鶏を入れた篭を積んで売りに来ていたおじさんがいたことや

厨房のおじさんにラーメンを音を立てて食べると叱られたことや

友達のお母さんのパトロンであったお父さんがシーコー博打に負けて

友達のお母さんごと博打相手に渡したことや

店を受け取った人が長い間古い店名の上に新しい名前を書いていたことは

今は昔の話

 

中華街は春節燈花も点灯されていて、今年は数年ぶりに賑やかな年の瀬になりそうだ