
寒露は、季節を表すために、一年を、二十四に区分した、二十四節季の一つ。
これをまたもっと細かくしたものに、七十二候があります。
もともとは、中国の、黄河のあたりの、農業に関する暦であったものが、日本に伝わり、
日本の文化と融合し、少しずつ変化を遂げていったものでもあります。
江戸時代後期に編纂された改正正月博物筌によると
『この月冷寒しだいにつのり、露凝んで霜とならんとするゆゑ、寒露と名づく』。
中国では、気が寒く露が凝固する寒露から、霜降(そうこう)霜が降るまでの間を15日間とし、
それをまた三候に区分して、雁が、まるで招待されたように集まり、雀が減り、貝があふれ、菊が黄色く咲く、
とされていた。
農家の人は、古来より、このように、季節を細かく区分し、そして、田を起こす日、種を蒔く日、と、決めていった。
農耕民族である日本では、田に稲あることも、稲架に稲が架かっていることも、当たり前のようにあるもの。
今年の夫の郷里でも、いつもであれば、当たり前にある風景だけれど、今年の冬、
その田から収穫されるはずの米は届かない。
歳時記のなかに、田守、という季語がある。
本来、田守とは、『秋の田の稲刈り初めて引きむすび田守の神にまつりおくなり』という、
稲田の神様のことをいうそうだが、
俳句の季語では、小田守る、稲番、田の庵、田番小屋、として、田の番をして、
秋の稔りを荒らされないようにする人のことをいう、とある。
江戸時代の俳人、小林一茶に、
人ありと見せる艸(草)履<ぞうり>や田番小屋
と詠まれている。
数年前、収穫前の米を大量に盗まれる人災に見舞われた農家。
夫の郷里では今年はその米さえ作れない。
自然と相対して生きるだけでも厳しいものなのに。