





苺は、遠い遠い大昔、石器時代から、ヨーロッパからアジアにかけて、既に人々に食べられていたとみられているそうですけれど、今のように品種改良されたのは18世紀の阿蘭陀のことで、同様に今のような形になったのは、南亜米利加原産のチリ種と北亜米利加原産のバージニア種が交配された結果なのだそうです。
当時のイチゴは学名を、フラガリヤ・アナナッサといわれ、アナナスとは鳳梨夏と漢字で表し、阿蘭陀語でパイナップルということから、パイナップル苺とも、呼ばれていたそうです。
日本には、江戸時代に、阿蘭陀から船でやってきたのだそうですけど、その実の赤さから最初の頃は鑑賞が目的とされ、食用になるまでには至らなかったとか。
日本で始めて苺を栽培されたのは、1899年、新宿御苑に勤務していた福羽逸人という方によるそうですけれど、このイチゴは、御料苺として天皇家に献上され、庶民の口に入るのは、戦後、アメリカから入ってきたダナーという種類が主流になってからのことだそうです。
苺 ベリーと呼ばれるものは、ほとんどが、バラ科の植物ですけど、ブルーベリーはツツジ科のコケモモ類になります。
赤くなる木苺のことを英語ではラズベリーといい、フランス語では、フランボワーズ、というそうです。
昭和34年頃の港が見える丘にも、木苺が生っていました。
その実は、深いオレンジ色で、小さな女の子の手には届かないところにありました。
雑草の茂る、広々とした丘の少し奥の方の(今、庭園風になっているあたり)何かの建物が建っていた跡で、大きく窪んだところの脇の、絶壁なのようなと頃を抜けていかなければならなかったからです。
その建物は、その昔、避病院と言われる、疫痢とか赤痢の患者が入院する病院で、だから、そこに落ちると生きては帰れないと、大人から厳しく諭されていた場所でも有ります。
実際には何が建っていたのか、今のところ 私には不明です。
公園の、今展望台があるあたりは、ちょっとしたキャンプ場にもなって、当時の若者達が天幕を張り、飯盒炊爨をして楽しんでもいました。
私が小学六年のとき、課題図書に、ポールのあした という本がありましたが、この主人公ポールが、私達と同じように丘の雑草地に座って海を眺めていたというのにとても親しみを持ったものでした。
その丘は、昭和36年に公園になることに決まり、子ども達は突然遊び場を失ってしまい、それと一緒にあの木苺も無くなりました。
苺の記憶のもっとも奥い場所には、小学校入学の前年に訪れた、父の郷里、鹿児島で摘んだ野苺があります。
雑木林の続く道の奥の、陽だまりの中で摘んだ苺です。たぶん苗代苺だったのだと思います。
10年ほど前、当時母が暮していた家の前の家の庭に、何故なのか、蛇苺が群生して、その実が赤くなる頃になると、その家の庭の奥に鬱蒼と立っているヒマラヤ杉と、灰色一色の家とで、凄く怖い雰囲気を漂わせていましたが、当の住人はとても気さくで、生け花を嗜む素敵な女性でした。
何故蛇苺を庭全体に這わせていたのかは、訊きそびれてしまいました。
俳句の季語では 苺は夏のものとして、枕草子から、覆盆子という文字も当てています。
因みに韓国では、この覆盆子という名前のお酒は、飲むと、とても、精力が付いて、盆(お小水を入れる甕)がひっくり返るほどだ、という意味なのだそうです。
試してもコメントはいりません。
枕草子の覆盆子の意は、木苺の実が熟すと、食用になる部分がすっぽりとれ、跡に、すり鉢状の窪みが残
り、その様子が、ひっくり返した盆(壷)のよう、ということだそうです。
遠く日本書紀では、いちびこ(伊致寐姑)といわれ、平安の時代には いちご と言われたそうですけれど、どれも木苺のことを言います。
蛇苺指を隠してとおりゃんせ