日曜日、いろんなところでお祭り気分でした。
なので、とりあえず出かけて、どこかで朝食を食べようということになり、
表通りに出ると、三つ先の信号のところまで来ていたバスに乗って、
県庁前で降りて、大桟橋に行くと、
海上自衛隊の、ひゅうが、と、くにさき、が着岸していました。
くにさきを先に見たので、大きいなあ、って感心したけど、
後にひゅうがを見たら、もっと大きくて、ハア、、と見上げてしまいました。
海上自衛隊の船、といえば、私の父も、かつて、えーと、元海軍で、後に
海上自衛隊の船になった、●●●●の艦長だったので、
その行く末を聞けたらいいなあ、と思って、何人かに聞くと、若い男の子がたまたま知っていて、
教えてくれました。
その船は、とうに廃籍になっていて、その当時は、(埋葬の意味を込めてか)海に沈めたんだそうです。
今は、海の汚れとか、そんな理由で、陸に引き上げてスクラップにされてしまうんだそうで、
なんとなく、海に沈めてもらえて良かったなあ、と思った次第です。
昔、手作りヨットを作ってテレビに出た義兄が、
船を海に沈めるのを、沈する、と、表現したことがありましたけど、
昭和五十年代には中村川にも、いくつものダルマ船が沈んでいたものでした。
その十年ほど前までは、
そのダルマ船の上に洗濯物が干され、小さな子供や犬も乗って、生活の場所にもなっていました。
私の同級生にも何人か、ダルマ船を実家とする子がいて、就学児になると、
水上学園という施設に入ったり、知り合いの家とか、お寺とか、そんなところで、親と離で暮らすのです。
ダルマ船に乗っているから貧しい、ということなどなく、ピアノやバレーを習っている子もいたりして、
水上学園では、クリスマスには華やかなパーテイを催したりして、
下町の子供たちの軽い羨望を浴びていたりもしました。
その頃の中村川は、けど、今より水が澄んでいて、その先の、横浜港にはもっとたくさん魚がいて、
石川町の駅の傍では、早朝、ドラム缶で茹でた蛸や、穴子なんかも売られて、
沖合では、港に出入する、本船を誘導するように、海豚が泳いだり、
飛び魚が跳ねたりしていました。
若い船乗りさんと父の話をしたためか、そんなことを思い出しながら、
大桟橋をあとにして、日本大通で催されている、ジャズとか、ダンスとかを見ながら、
横浜公園に行くと、韓国の人たちの太鼓が打ち鳴らされていて、
そのあと、米軍の、第七艦隊の人たちによる、吹奏楽が行われて、
その音楽の中を、中華の子どもたちの、龍舞が始まって、
そのたんびにみんなが拍手して、それは私が子どもの頃からほとんど変わらない風景で、
いい街だよなあ、と思いました。
追記
ひゅうがに乗船すると、すぐに、奥の方に誘導されて、誘導する方から、百人乗っても大丈夫だから
もっと詰めてください、と言われ、そうすると、前の方に黄色い、テープで、結界?が張られて、
え?え?っと思った瞬間、いきなり足元が上昇し始めて、思わず声を上げそうになりました。
上昇した床は、そのまま甲板になってしまうのです。
思いもしなかったサプライズが、とっても楽しかったです。

