7月20日 | ミナミのブログ

ミナミのブログ

のんびり、、まったり

その日、我が家に、嘗て外洋航路の船長であった父の友人が遊びに見えて、


今日の夜、山下埠頭で花火を打ち上げる、というお話をされました。


その日が私の誕生日だと知ると、お嬢ちゃんのお誕生日をお祝いしてネ、と付け加えました。


当時5才だった私は本気で、あの大きな花火は私のお誕生日をお祝いしてくれているんだ、


と、そう思いました。


けど、それは、横浜国際花火大会、というものであって、あのおじさんが打ち上げているわけでもない、


と知ったのは、わりと早い時期でしたから、ご近所のおばさんに言いふらしただけで済みました。



私の誕生日である7月20日は、夏休みの始まりの日でもありました。


高度成長を只管目指している頃のサラリーマンには、


週休二日もなければ、ハナキン、なんて言葉もなくて、


朝は朝星、夜は夜星、昼は梅干頂いて、


頑張って働いてました。



なので,7月20日は、子どもたちにとって、特別の日でもありました。


明日から一ヶ月半くらい、学校に行かなくていいんですから。



その夏休み前、ご町内では、こぞって、畳まで干して、大掃除をしてました。


割烹着に手ぬぐいを被ったお母さんや、紺色の半纏を着たお父さんたちが


梅雨の晴れ間に畳を叩いて、その合間にお茶なんぞ飲んだりして、


子どもたちはわけもなくはしゃいで、干してある畳を倒したりして叱られたりして、賑やかでした。



六年生になった子は、親に代わって、町内の側溝などに消毒剤を撒いて歩いたり、


家の窓を拭いたり、畳上げを手伝ったり。。今思うと、もう一端の大人、って雰囲気で、


元気いっぱい遊んでいたのは、五年生以下でした。


その五年生も、ご町内で遊ぶときは、幼い子どもの面倒を見る、というふうで、


自分から遊ぶという雰囲気ではありませんでした。


小学校に入っていない子がその輪の中に入ると、みそっかす、と呼ばれ、


縄跳びや缶けりのあそびでも、ノーカウントにされてました。



遊びの内容は、


自転車の車輪の、チューブを外したのを、竹の棒で回しながら走ったり、


長い板を五角に組んで、それに乗って歩いたり、


空き缶を蹴って、鬼ごっこをしたり、


五寸釘を地面にさして陣地取りをしたり、


Sの字を地面に書いて、ケンケンして戦ったり、


丸を幾つか描いて、一番最後に天国を描いて、片足で飛ぶ、ケンケンパをしたり、


踝から、膝、腰、胸、肩、と、ゴムを張って飛ぶ、ゴム段飛びなんてのがあったり、


渡辺さんちの塀に一人が立って、その次の人が馬になる、馬跳びをしたり、


あんまりお金をかけない遊びが主流でしたが、みんな懸命に遊んでました。



7月20日の朝、子どもたちは、いつもよりちょっとだけ早く起きて、家の前を掃いたり、


ご飯の配膳を手伝ったり、とっても良い子になります。


何故なら、この日、あの、通知表を持って帰るからです。



私は夕方、父が帰るのを、玄関を出たり入ったりしながら、


結果報告をするのを心待ちにしていました。


この父は、通知表の良いところだけを褒めてくれたからです。


誰かに自分の頑張った成果を喜んでもらえる、って嬉しいものですね。



大人になってからも、7月20日の海の記念日に打ち上げられる花火を見ていると、


幼い頃に父の友人から言われた言葉を思い出して、ひっそりと、私のお祝いの花火だと、


そう思っていましたけど、海の記念日は海の日に変り、休日になり、その休日も、


今年はハッピーマンデーという呼び名に変わってしまい、


花火も7月20日に打ち上げられることもなくなり、


今は昔の物語になりました。



けど、今日は近隣の小学校の夏休みの始まりの日のようで、


ランドセルを背負わない、身軽な子どもたちが元気に登校していきました。


もう少ししたら、朝顔の植木鉢を持って帰ってくることだと思います。



そーいえば、暑中見舞いは、本日から差し上げることができる、と、


小学校時代の担任の市川先生が教えてくれましたので、今日、これから書こうと思います。