伊達なお散歩~伊達小次郎の墓~ | 杜の都のすずめのお宿

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政宗公の弟,伊達小次郎のお墓をお参りしてきました。


道案内がとても丁寧。
迷わずたどり着きました。

 

 

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戒名は「長谷寺殿覺心圓公大居士」でしょうか。(公が自信無し)


以下教育委員会による解説
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伊達小次郎君は仙台藩朱伊達政宗の只一人の弟です。
政宗公は,天正17年,会津の芦名氏を磐梯山麓の摺上原に破り,黒川城(若松市)に入りました。
中央では豊臣秀吉が天下統一を進め,小田原の北条氏を攻め,政宗公にも小田原参陣を命じてきました。
天下の形勢が秀吉に傾くのを見た政宗公はようやく小田原参陣を決意し,天正18年(1590年)4月5日,小田原参陣の無事を願うという母公御東様の招きの宴に,黒川城の西館に行きましたが,諸藩の者が毒味をしたところ,たちまち血を吐いて死に政宗公毒殺の陰謀が発覚しました。
(政宗公が食したという説もある)
調べてみると,秀吉の家臣となっていた芦名家を滅ぼしたことによる,秀吉の怒りを解くため,政宗公を亡き者として,弟の小次郎君を家督に擁立しようとした母公の陰謀と判明しました。
母公は陰謀が露顕するとその夜のうちに山形の生家最上家へ逃れました。
政宗公は4月7日,小次郎君のお守役小原縫殿助の屋敷で小次郎君を自ら成敗し,七代の勘当を言い渡しました。
「お竺(小次郎の幼名)許せよ。そちに罪はないが母の罪を問うことはできぬ。故にこうしたのだ。」と,政宗公も涙を落されました。
小原縫殿助は,小次郎君の遺骸を擁して密かに黒川城を出,始め福島の某寺に埋葬しましたが,天正19年秋,秀吉の東北仕置により政宗公は会津の地を召し上げられ,新たに旧葛西氏,大崎市の領地が与えられました。
この時,政宗公は本吉郡横山の地を母公の化粧領地として当てられました。
小原縫殿助は,母公から内密の命を受け,伊達家の領地でなくなった福島から母公の化粧領地となったこの地に小次郎君の遺骸を改葬しました。
文禄元年(1592年)一月でした。
改葬し終えた縫殿助は2月に殉死し,墓はこの山の南面にあります。

時は流れて200年後,七代の勘当が解かれた寛政5年2月に八代藩主斉村公は名代を遣わされて供養を行いました。
明治26年5月には,地元有志や長谷寺住職,元吉郡長が発起人となり,現在の墓碑を建立して300年祭の大法要を行いました。
昭和62年3月には,地元有志によって「伊達小次郎君奉賛会」を設立し,400年の大法要を行い,悲運の公子小次郎君の御霊をお慰めしました。
戦国時代,伊達家存続の犠牲となり,悲運13歳の生涯を閉じられた小次郎君はここに静かに眠られています。
訪れる有志各位合掌してくださるようお願いいたします。
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小原縫殿助の墓

 



長谷寺

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最近では義姫による毒殺未遂は政宗公と義姫による芝居ではなかったかという説もあるそうです。
確かに,いくら実母とはいえ事件後も手紙のやり取りをしたり近くにいたりと仲が良い記録が残っていますものね。

また,真偽のほどは定かではありませんが,小次郎は生き残って大悲願寺の住職となり,のちに政宗公が大悲願寺の白萩を所望したのは暗に弟の小次郎に会いたいという思いを意味していたという話も聞いたことがあります。

ちなみに白萩を所望した話に関連して,後世,あきるの市から仙台市に寄贈された白萩が仙台市博物館の入口近くに植えられています。