父の日だから… その7 | Mona Khalifaのブログ

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ようこそ。
今日は天気が今一つです。やはり台風が近付いているからでしょう。これから油断がならない状況になると思いますので、お出掛けの際は十分に御用心を。
今月11日と12日に大阪城で真田幸村の大阪城入城再現イベントがあるようですね。これは大坂の陣400年記念イベントの一環として催されるものですが、連休ですし、再来年の大河ドラマの事もありますし、かなり盛り上がりそうですね。私も行きたいです。
大坂の陣より時代が遡りますが、先日3日、熊本県立美術館と熊本大学と東京大学が、織田信長が天下統一に向けて1568年に上洛する二年前に計画した「幻の上洛作戦」を裏付ける足利将軍家側近の書状を発見したと発表したとか。計画の存在は知られていましたが、書状によって信長が予定していた上洛の経路が具体的に判明し、日付から計画が実行直前で頓挫した事もわかったそうです。
書状は、室町幕府13代将軍足利義輝の暗殺後、後に15代将軍となった義昭の側近等が署名した計14通で、いずれも1566(永禄9)年8月28日付です。
幕府再興を目指す義昭と側近が伊賀(三重県)や山城(京都府)等京都周辺の勢力に宛てて「御入洛の御供として織田尾張守参陣し候」と、義昭の上洛で信長の協力を得た事を示し、自らに味方するよう呼び掛ける内容です。
宛先等から、信長等は尾張(愛知県)から北伊勢(三重県)、甲賀(滋賀県)、矢島(同じく滋賀県)を経て京都に入る予定だった事がわかります。「定日次第に御使を差し越さるべく候」と、上洛日程が決まり次第、使者を送る事も記しましたが、書状の日付の翌29日、近江(これも滋賀県)の有力大名の六角氏が義昭側から離反して、計画は頓挫しました。
さて、ぼちぼち、今年6月15日の岡方倶楽部に戻ります。
時刻は午後1時になろうとしています。