こんにちは

 

 

 

 

宇宙スパークルBeam with Joy

のブログへようこそ

 

 

 

未来の自分の

きらめき=楽しんでいる自分

を発見し

 

ワクワク過ごしていきたい人を応援します

 

Beam with Joyです

beam with joy とは 

喜びで顔を輝かせるという意味

いつもそうありたいと思っています

 

 

 

 

まずは私のことを知っていただきたいので

 

少し、いやだいぶ長いです💦

自己紹介させてくださいニコニコ

 

 

 

 

わたしは

専業主婦の母と会社員の父のもと

第1子長女として

この世に誕生しました。

 

 

 

 

1歳半の時に妹が生まれ

 

 

 

 

妹は体も大きく食欲も旺盛おにぎり

後から聞いた話では、妹はご飯があれば

勝手に手を伸ばして食べ始める一方で、

私は食にあまり興味がなく

食べさせてもあまり食べなかった。

 

 

 

 

そして

1年半の差なんてなかったかのように

あっっという間に

 

妹は私と同じサイズの洋服を着るようになり

 

私たち姉妹は

どこへ行っても

 

双子と間違われるようになりましたうさぎうさぎ

 妹のことはまた後ほど…

 

 

 

 

私は

教育熱心な母が友人と立ち上げた

育児サークルでたくさん遊び

 

 

 

幼なじみの友達と一緒に

 

 

 

私立の幼稚園に入園し、幼稚園生活を満喫おねがい

 えんじ色のかわいい制服&帽子、お気に入りだったなー♪

 

 

帰宅後は男の子と一緒に遊ぶ毎日

 

 

鬼ごっことか

 

 

どろあそび

 

 

ダンプカーとかで遊んでた

 

 近所に女の子の友達があまりいなかったことや

 母の友人の子供=男の子だったから

 というのもあるけれど

 

 人形あそび🧸やごっこ遊び👨‍👩‍👧‍👦

 (お父さん役、お母さん役になって、

 おかえりなさ〜い♡とかするやつ、

 家族ごっこって言うのかな)

 が好きじゃなかった

 

 というか超苦痛だった

 女の子といると、何故か

 そういう遊びになるんだよね

 妹もそれが好きだったから

 よく付き合わされていたけど

 よく途中で切り上げてたチュー

   

 

そんな私でも、

バービー人形で色んなドレスや着物を

着せ替えて、髪の毛セットしたり

するのは大好きだった

自分の世界に入っていたのかも

 

 

 

習い事は

幼稚園の途中からピアノ

音大生の超やさしい先生だった

数年後には嫌になって辞めるんだけど

この時は嫌だった記憶はない

 

 

後から聞いた話では

母は音楽が大好きで

子供の頃ピアノを習いたかったけれど

習わせてもらえず

進学先も思い通りにできなかったらしい

 

なので

娘には自分ができなかったピアノを

習わせたかったのだと

きっと音楽好きになってもらいたかったのかなと思う

 自分の夢を娘に託してたのね

 

そういうわけで

最初私が本当にやりたかったのかは不明


 

幼稚園も楽しく、ピアノも習って

そのまま順調にいくと思ったら

そうは問屋が卸さなかった

 

 

父の転勤=転園!!

 

 

それは幼稚園年長の1月!!!

マジで??

あと3か月で卒業だよ!

 

 

両親は

私が引っ越し先で

小学校入学前に

少しでも慣れて

友達を作っておいた方が良いと

判断したのだった...

 

 

 

こうして

ちょっとかわいい

お気に入りの制服を着ていた私は

制服=ジャージという幼稚園に転校したのでしたえーん

 

 

しかも!転園したところの

ジャージの色はオレンジ!

パステル系のかわいいオレンジ色ならまだしも

よりによって 原色オレンジ色びっくり

 


いやこれはかなり衝撃的だったし

嫌だったー

1つメリットがあるとしたら

遠くからでもすぐに見つかること爆笑

 

 

 

私へのまわりへの認識は

いつも

しっかり者で頑張り屋さん

笑顔で頼りになるお姉ちゃん

だったから



両親には迷惑をかけないように

期待に応えられるように

しようと思ってた

 

 

転校してもきっと大丈夫と

自分にも言い聞かせていた

頑張り屋さんだから

弱音は吐かなかった

 

 

 

人に頼らない・頼れないのは

この頃からだった

 

 

 

転校先の幼稚園で覚えているのは

トランポリン事件

ぴょんぴょん跳ねて気持ちよくて

大好きな遊具のひとつ

 

 

 

でもそれは

いつも同じ子が使っていた

 

 

その子が

クラスのボス的存在だと分かってからは

トランポリンをやりたかったけれど

順番が来るまで枠につかまって

その子が飛び跳ねているのを見ながら

黙って我慢した



心の中では


何で一人だけずっとやってるの??

みんな待ってるのにー!!

早く代わってよープンプン

 


本人に言って嫌われたくなかったから

言えないまま...

 


私、我慢ばっかりしてたなぁ

予防接種でも泣かないし

怪我して血を出しても泣かない

 

 


そんなこんなで幼稚園卒業

 

 

 

まあまあ友達もでき

地元の公立小学校へ入学

 


小学校に上がってから

ピアノを再開

妹もピアノを始める




と同時に母は絶対音感のあった私に

ヴァイオリンを習わせようと思い

体験に連れて行くが、私は興味を示さず

結局、興味を示した妹がやることになる




その後、2学年下の妹は

お受験をして国立大学の附属小学校へ入学

制服を着てバス通学



私の小学校に比べ授業の自由度が高く

面白そうな授業の話を聞くたびに羨ましかった

引っ越してきた時には受験はすでに終わっている時期だったから

仕方なかったのだが…でも羨ましかった



ヴァイオリンもピアノも毎日練習し

スイミングもやっていて成績優秀

ヴァイオリンのコンクールで入賞したりもしていた

自慢の妹✨



親からは

妹と比較された記憶は一切ないけれど

私は1人で勝手に比較して

劣等感を感じてた






毎日、ピアノの練習をしなさい!と言われ続け

練習が苦痛で仕方なかった私は

レッスンに行って居眠りする始末

弾きながら寝るとか、我ながら器用なことをしていたと思う

いや、不真面目すぎるてへぺろ

超真面目な厳しい先生を前に居眠りをして

麦茶を出してもらっていたのは私くらいだと思う💦



そして5年生の頃、家での練習とそれを

毎日やれと言われるのが本当に嫌になり

そんなにやりたければお母さんがやればいい!と

啖呵を切って、勝手にピアノを辞めた

この時は、かなりスッキリしたのを覚えている

なんとも言えない開放感!

母も先生も呆気に取られてた



教育熱心な母は私達姉妹を

毎月、クラシック音楽のコンサートに連れて行き

良い音に触れさせてくれた

おかげで耳だけは肥えていきました

でも、そこでも私は寝る笑い泣き

豚に真珠とはこのことか…




小学校での私は

すっかり地元の方言を使いこなしてはいたけれど

国語の授業で本を音読する時に

アナウンサーが話す標準語が美しいと

思っていたからの

先生の言葉のアクセントが気になって仕方なかった

 

 

そしてある日

私が音読した「心」のアクセントが違うと先生に直される

先生の頭の中では

地元のアクセント、最初が高い音の(こころ — _ _ 

が標準だったから

標準語のアクセント(こころ _ — _ 

を使った私は直された

 


とりあえずその場では直したけれど、

マジで納得できなかった。

何で私が直されなきゃいけないの?これ国語の授業だし

先生なのに標準語知らないの?みたいなかんじ




多分、その頃から自分の中で

ここ(地元)には染まらない!というような

変なバリアを作り始めていた

友達と話す時は地元の子と同じくらい

方言は使っていたけれど

 

  

 


10歳の頃、大きな出来事があった

弟が誕生したのだ!

我が家とって初めての男の子

私が生まれる時も男だと信じて疑わなかった父は、

相当うれしかったに違いない

私が生まれる時は男の子の名前しか考えていなかったと

言っていたくらいだから


当時は今のように超音波検査があったとしても

精度は低く、生まれるまで

性別がハッキリしなかったはず

 

でも、でもその弟は生後1か月の時に

病気で亡くなってしまった


具合が悪くなってからあっという間のことで

妹と私は急に友達の家に預けられ、

一晩泊まった記憶がある

友達のお母さんは、

表面上はいつもと変わりなかったけれど、

何か嫌な予感や違和感があったのを覚えている

でもその感覚は誰にも打ち明けることはなかった


何かよく分からないけれど、

今は両親や友達のお母さんに

心配かけちゃいけない時だと感じていたから

 

 

亡くなった時も

しっかりしてる女の子だった私は

泣くことが出来ず というかみんなが泣いているのを見て、

何で私は涙が出ないんだろうと思っていた

遠くからお葬式に来てくれた祖母が

私をぎゅっと抱きしめて「泣いていいんだよ」

と言ってくれた

その言葉を聞いて

あー私 我慢していたんだと

急に安心できた感じがして

我慢して我慢して張り詰めていた

心の糸がプツンと切れ

ようやく泣けたのだった

 

 

実家に帰るたびお仏壇の弟の顔を見るたびに

赤ちゃんの時の顔しかわからないけれど

生きていたらもう30代のおっさんだと思うと

ちょっと笑える

 

 

 

私がしっかりしていると見られていたのは

いつもニコニコはしていたけれど

感情をあまり出さなかったからかもしれない

心の中では色々考えていた

そしていつも周りの目を気にしていた



お読みくださり

ありがとうございました♡


まだまだ続きます…