死んだらどうなると思う?(知るかボケ)

この問いを真顔で投げかけられたら、多くの人が少しだけ息を飲む。(か、優しい顔で心はドン引き)

でも正直、私の周りではだいたい3パターンの答えに分かれる。(当社比ってやつ)


① 天国か地獄的な“お裁き型”

② 魂は永遠に続くという“転生型”

③ 死んだらもう意識はない“ジエンド型”

この中で、スピリチュアル好きな人たちはだいたい①か②を信じている。(①は躾が厳しいご家庭感もある。鬼くるよ!を多用した躾など)

(②は、お裁き型レジスタンス的な立ち位置からの思想?)


でも、最近ちょっと思うのだ。

中途半端に“死後もある”と信じると、


逆に「後悔」を増やしてない?と。


死んだあと“見せられるスライドショー”の呪い

「人生が終わると、これまでの人生が走馬灯のように流れる」という超定番スピ語録がある。

私はこの話を聞くたびに、ちょっと肩がこる。

なぜならこのスライドショーには、“評価”の匂いがしませんか?「あのとき、ああしておけば…」「もっと優しくできたのに…」「本当は言いたかったのに…」ぐぬぬ

こんな後悔系のフラッシュバックを延々見せられる、まるで“霊的自己反省会”。

でもそれっていつの誰のため?

生きてるときより、

死んでからのほうが気疲れ

するとか、笑えない。


後悔とは“死後世界の想定”から生まれる幻想かもしれない。(実際に死ななくても走馬灯は見れる、感想はただの映像。そのただの映像が肉体を脱ぐとリアル高次の体に響くのかしら、知らんけど。)


後悔しないように生きなきゃ

という人の多くは、“どこかで見られてる”感覚を持っている。つまり、死後に振り返るステージがあるという設定を、うっすら前提にしている。


でも考えてみてほしい。

もし、死んだら本当にすべて終わりだったら?もう何も見られないし、記録も残らないし、裁きもない。

…え?じゃあ今、必死に「後悔しないように」とか言ってた自分、いったい誰に対してのポーズだったの?

と、一気に肩の力が抜けるじゃないですか。


“ジエンド型死後観”は、

実は超健全かもしれない


スピリチュアル文脈では、「死んだらおしまい」は低次元低脳っぽく扱われがち。


でも、よく考えたらこの思想、

ものすごく“今に集中してる”。


・過去に執着しない・未来の裁きを恐れない

・今この瞬間を味わうことだけがリアル


これって、禅とか仏教の

「ただ在れ」

マインドとすごく近い。


魂は永続だとしても、この人格・この個性・この身体は一度きり。そう思ったら、むしろ「後悔しないように」なんて外側の言葉じゃなく、「今ここに在る自分と一致していたい」という内側の声に耳を澄ませたくなる。

「死んだら終わり」でいいじゃない。

だって今、生きてるんだし。

で、私は相変わらず

“魂は続く”と思ってる。(THE思想)


でも、こういってみる

「死んだら終わり」でいいじゃない。

だって今、生きてるんだし。


という思考実験をあえてしてみることで、「今この瞬間しか確かなものはない」という原点に立ち返ることができる。

もし明日、ぽっくり死ぬとしたら?

誰かに“見せるため”の人生じゃなくて、“自分が味わい尽くした”って思える瞬間をひとつでも多く刻んでおきたい。


魂の永続も、死後の反省会も、

天界での光の報酬も、

ぶっちゃけどうでもいい。

今、この肉体と感情で、どれだけ本気で“在ったか”。

それが、私や生き物のリアルだ。


ちゃぶ台返し的な結論

後悔は、死後の物語が

必要としている“幻想”


死後があるかないかは、たぶん死んでみなきゃわからない。(よっしゃ!◯んでくる!)でも少なくとも、「後悔しないように」とビクビクして生きるのは、死後の誰かに向けて、自分を演出しているようなものだ。


それは、死後承認欲求という

ニュージャンルの爆誕


それよりも、「生ききった」と今の自分が言える瞬間を増やすことのほうが、ずっと誠実だ。


ちゃぶ台返し的なスピりっちゃるまとめ

死後世界を“中途半端に信じる”と、後悔はふくらむ

「見られてる」「裁かれる」の幻想が今の自由を制限する

「死んだら終わり」で生きるほうが、実は今と一致できる

魂が続くとしても、人格と肉体は一回こっきり

後悔とは、未来の幽霊が創った恐れのドラマ

終わる前提で、今をちゃんと“在る

ジエンド型こそ!?死後に何も残らなくても、

何かが確かに“響いていた”人生


いっそジエンド界隈で

清らかな肉肉しさを取り戻せ!