うちの猫は、マロンといいます
息子が名付けました。
他にも候補はあって、ミカン、茶太郎、ルル、などもありました。でも最終的に「マロン」がしっくりくる、と息子が選びました。
理由は、茶色くて栗みたいだったから。あと、オスだけど、オスらしい名前にしたくなかった、と。
なんとなく…でも、きちんと“感じて”選ばれた名前。
この「なんとなく」の中には、子どもの感性がとらえた“存在の本質”がちゃんと入っている。名づけの直感は、いつだって大人よりも純粋だと思います。
マロンという名には、
やわらかくて、あたたかくて、
中性的で、無垢なやさしさが宿っています。
マ=包み込む、母性、やさしい場をつくる響き
ロ=流れ、やわらかな循環、感性の水音
ン=調和、統合、静けさ、完結の響き
マロン。名前を呼ぶだけで、部屋の空気がやわらぐ。そんな優しい音の服を着て、マロンは毎日わたしたちの間にいます。
この出来事をきっかけに、
あらためて“名前ってなんだろう”と考えました。
人間の名前は、猫よりもずっと複雑です
生まれたときに親がつけてくれて、それを一生背負って、何度も書いて、何度も呼ばれる…
実は意外と多いんです。
“自分の名前が、自分自身と
完全には一致していない”
という感覚を持つ人。
たとえば
・おじいちゃんの名前の一字を受け継いだ(でも意味は知らない)
・姓名判断の先生におまかせで決められた(どこか他人事)
・両親の希望が合わず、妥協案として生まれた名前(どっちつかず)
・生まれる直前に急きょ決まった名前(本人の魂と調律されていない)
・兄弟姉妹の名前とのバランスでつけられた(わたし固有の響きではない)
・当時流行っていた名前を「響きがいいから」と採用(中身が空っぽに感じる)
・本命の名前が家族都合で却下され、次点の名前で登録された
・あとから母親に「ほんとは別の名前がよかった」と言われた
・意味よりも字画優先で選ばれた結果、口に出すと気持ちが乗らない
・生まれた家の宗教・家系の伝統で、選択の余地なく与えられた
・出生届の提出に間に合うための“とりあえず名”だった
このように、“なんとなく”“とりあえず”“親の都合で”という経緯でつけられた名前を持つ人は実際とても多いです。それがすぐに問題になるわけではありませんが、名前というのは、本来“魂と現実をつなぐコード”であり、音霊的にも身体の中にしっかりと響いていてほしいもの。でももし、その名前が今の自分の魂の振動とかけ離れていたら──
名前を呼ばれるたびに、
微細な違和感が生まれます。
それはたとえば
・誰かに呼ばれても「はい」と自然に返せない
・名乗った瞬間に自信が失われる
・名前を書くたびにエネルギーが漏れるような感覚がある
・名前が自分を表しているとは感じられず、演じているようになる
・仕事や表現活動で本名を出すのが怖い、苦しい
・呼ばれても“魂が反応しない”感覚になる
こうした状態が続くと、自己の輪郭がぼやけたり、存在の深度が浅くなったり、発言力や現実化の力が弱まるということすら起こります。
逆に、自分の名前と深く一致していると
・誰かに呼ばれるたびに“自分という存在”に戻れる
・名前を書くたびに力がこもる
・「わたしはこれです」と、名乗ることが祈りになる
・その名を通じて世界と関係を築ける
・音として口に出すたびに、内側に整合感が生まれる
つまり、自分の名前と波動が一致しているというのは、
“自分が世界と接続するための回路が正確に働いている”ということ。
それは安心感であり、発信力であり、
魂の居場所のようなものでもあります。
だからもし、今の名前に違和感があるなら、
それを見て見ぬふりせず、その違和感を
“魂が目を覚ましたサイン”として
扱っていいのです。
名前を愛せること。
その名で生きることが誇らしいと感じられること。
これは自尊心の根源であり、魂の調律そのものです。
呼ばれてうれしい。
名乗って力が湧く。
その状態は、自分の音霊と一致した名を
生きている証拠です。
名前は、魂の声をこの世界に響かせる“音の祈り”。
だからこそ、たとえ誰かがなんとなくつけたものであっても、いまこの瞬間から、自分でその名に光を注ぎ直すことができます。それは、名前という器に「わたしが宿る」瞬間。魂の在処が、音に定まる瞬間です。
そしてそれが、人生の音程を整え、現実を変えていきます。
Next up

