私たちはよく、

「自然は無償で与えてくれるもの」

と思いがちです。

水、空気、植物、大地、太陽の光──

それらは、買わなくてもそこに“ある”ように見えるから。


けれど本当は、

自然は“ただ与えるだけ”ではありません。

自然とは、

与える存在であると同時に、

共鳴する存在なのです。


つまり、

私たちがどんな意識で受け取り、

どんな思いで返すかによって、

自然はどう応えるか

どうかを選んでいます。


水を汚しながら

「自然はタダだから」と言っていれば、

やがて水は枯れ、


命の光は細っていきます。


木を切り、土を固め、見た目だけ整えた“環境に優しい風”のまちをつくっても、

そこに神聖なやりとりがなければ、循環は生まれません。




自然から与えられた“光の思い”に対して、

人間が返すべき“光の思い”とは何でしょうか?


それは、こうしたことに現れます:


  • 食べ物をいただくときに、命への感謝を行動で表す(日本人のいただきますと感謝から食事を始める文化)
  • 必要な分だけ使い、残りは分かち合うという選択
  • 掃除や手入れという地味な仕事にも愛を注ぐ
  • 自然のリズムに耳を澄ませて、静かに暮らす
  • 美しさを讃える気持ちを、詩や歌や手仕事にして返す



つまり、感謝+意識+祈り

=光の思い。




見せかけのエコは、

制度や見た目を“環境に優しく”整えることかもしれません。


けれどそれは、

自然との関係性が存在しないままの形式です。


世界が本当に回りはじめるのは、

人間が自然からもらった“目に見えないもの”──

愛や命の波動、神聖な贈与の感覚を、

同じような質で行動にして返すときです。


それが、「本物の循環型社会」の始まりだと思います。

よく、たくさん人間がいる世界の中の私1人が思っても、何も変わらない…と消極的自我に囚われている人がいますが、


そんな事はございません。


大きな事は小さな意識から始まります。それは今からその意識に光をあてる「そう思う」ことから始まります。

人々は環境への配慮の意識が著しく低下していても、環境から恵を受け取れたのは、もしかしたら、他の宇宙意識や神々により、地球人が地球に返さない光を、それらが愛や慈悲の境地を持って、地球に保護の光をかけて守ってくださっていたのでは…と、おめでたい私は時々思います。

そろそろ皆自立し、循環と共鳴の時代に生きたいものです。


皆様はいかがでしょうか?