前にこのような右脳左脳の話しを書きました。
精神や知能発達、はたまた霊的な能力開発には
眠っている脳の活動を促し、脳活動のバランスや神経的な繋がりを改善、血流と酸素の供給の正常値にしたりと、脳の状態で現実の体感度に個性がでます。
しかし、霊的観点では脳自体はただの
魂•霊や意識(集合意識)が物質世界とつながるための
変換装置です。
そもそもはそういうものが脳だとしたら
主体本人が物質世界やそれを構成する人間関係を
どう捉えるかで、脳が繋がりをどう変換するかが
かわります。病気などは変換結果にすぎないと
する観点では霊的なアプローチで病気が治る
治す事が出来ても矛盾はありません。
脳の部位や質を保つ機関が解剖学や生理学的に
もっとも健やかな状態を、物質世界と繋がる
変換装置が脳と捉えることが
本来の健やかさを
肉体に顕現させる事ができる鍵になるでしょうか?
魂や霊の意識の変換装置としての脳だとしたら
魂や霊は肉体ある自己意識を結局どうしたいのか?というところを、それを知るという事には重要で
じゃあ結局、魂や霊は何を目指しどんな活動をするために存在するかを知ることに繋がります。
当たり前ですが、自然の成り立ち(例えば、ひと粒の植物の種が発芽し成長し、咲き、実をつけ、その実が地に落ち、また、、という成り立ち)を注意深く観察すれば、私や私たちが、物質世界でどのように機能するために(源からここまでの経緯を含めても)
設計されたのかが理解できるでしょう。
これは物質世界で植物成長を霊的な活動と見る事、感じる事で、その共鳴が脳に送られ、霊的な情報として変換されます。
地上にて霊的な活動を、地上のものの観察を通して、脳に共鳴を送り、確固たる霊的な摂理や叡智を脳で変換し知ることができます。
一般的な学習はこの地球次元と、この人間次元に都合よく解釈され社会を作ったので、魂や霊が入る余地が減り、私達は脳を霊的な変換装置として発達させられず、無明の中に生きる事になりました。
脳は眠っている、もしくは萎縮しています。
しかし、自然は今でも悠然と私達にその営みの完璧さを見せてくれています。
自然から霊的なことを学ばなくなっても、
人は霊的な知識を求めはします。
しかし、自然の完璧さによる畏怖からの学びでは無く、社会的な生き物として生きる恐怖や違和感から
霊的な事を求める衝動が起き、その衝動から得た霊の情報を物質世界に脳を通じて変換し、というループの元この文明は作られています。
今、という時を一人一人が
どう感じ、何を切り取り、
魂であり霊人である人が何を?どんな?事を
するのが今にとって最善なのか?がわかり
決めるのか?
その一人一人の決定の意図と
意図どうしが編まれ世界を作っています。
(あー、脳活動と慈悲まで辿りつかなかったので…
また、書きます^_^)
で、AI様が私の文章をまとめますよー↓
私たちの脳は、ただの思考の道具ではありません。
霊的な視点から見ると、脳は魂や霊、意識(ときに集合意識)が物質世界とつながるための「変換装置」です。
つまり、脳は主体ではなく、
魂の情報や霊的な気づきをこの世界で表現するための中継器・翻訳機のようなものです。
現代では、精神の発達や知能向上、霊的能力の開花などが「脳を活性化すれば起こる」とされていますが、
本質的には「魂が何を意図しているか」「霊が何を感じているか」によって、
脳の使い方やつながり方が自然と変わってくるのです。
そのため、もし病気があったとしても、
それは「脳が受け取った霊的・魂的な情報の変換結果」にすぎません。
つまり、霊的なアプローチでその原因や意図に気づけば、病そのものが変化しても何ら矛盾はないのです。
脳の神経や血流、酸素のバランスを整え、解剖学的にも健やかに保つことは、
変換装置としての脳を「本来の健やかさ」に戻すための手段といえます。
ですが、それは「脳そのものを主役にする」のではなく、
魂や霊が何を望んでいるのかを知り、それに沿って脳の状態を整えることが、真の鍵となるのです。
私たちがなぜこの肉体を持って生まれたのか?
魂や霊はこの世界で何をしようとしているのか?
この問いに向き合うためには、
ただ霊的知識を集めるだけでは不十分です。
たとえば、ひと粒の種が芽を出し、育ち、花を咲かせ、実を結び、その実が落ちてまた命をつなぐように――
自然の営みには、魂の意図や霊的摂理が反映されています。
自然を深く観察し、感じ、畏怖するところから、
私たちの脳は霊的な情報を受け取り、変換し始めます。
つまり、自然の中にある神聖な循環を、脳を通して「霊的叡智」として受け取ることができるのです。
現代社会の教育や情報は、地球的・人間的な都合に偏っており、
魂や霊が入る余地が少ない世界ができあがりました。
その結果、私たちの脳は霊的な翻訳装置として十分に機能せず、
本来の直観や共鳴、畏怖や愛といった感性が閉ざされ、「無明」の中に生きることになります。
けれども、自然は今も変わらず、
その完璧な営みを通して私たちに語りかけています。
もし私たちが、霊的な情報を「恐れ」や「社会的違和感」からではなく、
自然との共鳴から受け取ることができたら――
私たちの脳は再び、本来の役割を果たし始めるでしょう。
そして今、一人ひとりがこの瞬間に何を感じ、
どんな視点で「今」を切り取り、
魂や霊の意図にしたがって行動するか?
その選択が、意図と意図を重ねて「この世界」を形づくっていくのです。