ボクって、自閉症・・? | 不登校の子ども、障がいのある子どもの学びの場☆スペース海

ボクって、自閉症・・?

自閉症の三つ組みについての記事を何度か書いた。

その中で、自閉症の人と自閉症でない人のコミュニケーションやこだわりには、

質的な違いがあると書いた。


ただ、一方で自閉症スペクトラムというとらえ方もある。

スペクトラムというのは連続体、

つまり、自閉症と言ってもとても幅があるよ・・ということ。


自閉症の中には、重度の知的障がいをともなう場合もあれば、

知的な遅れはない場合もある。

それどころか、ノーベル賞をとるような研究者や美術史に残るようなアーティストが

広い意味での自閉症だという場合もある。


こだわりだについても、非常に強いこだわりをもつ場合もあれば、

それほどでもない場合もある。

ホント、ひとりひとり違う。


でも、幅があるっていうことは、

「ボクって、自閉症・・?」という疑問だってうまれてくる。

特に、ちょっと、いろいろなものにこだわりがあったり、

集団の中で生活するのが苦手であったり、

そんな自分を振り返ってみたら、

「ボクって、自閉症・・?」という疑問だってうまれてくる。


子どもたちと関わってみて、

「きっと、この子は医療機関では自閉症という診断は出ないよなあ・・」

「でも、その延長線上にはいるよなあ・・」

という、いわゆるグレーゾーンの子どもに出会うこともある。


そう考えると、私がちょっとこだわって書いた「質的な違い」にどこで線引きが

できるか・・・難しい、そんな線引きは無理なのかもしれない。


ただ、それでも私は「質的な違い」を意識する必要があると思っている。

特に自閉症児者の支援をしようと考える人にはその視点が必要だと思う。


その理由をこんな風に考えている。


自閉症の人はひとりひとり、みんな違う。そのひとりひとりを支援するという時に

いちばん大切なのは、そのひとりひとりから学ぶという姿勢ではないだろうか。


ひとりひとりから学ぶためにはどうすればいいのか、

それは可能な限り支援者のフィルターを透明にすること、「空っぽ」になること

ではないだろうか。


支援する側のフィルターを透明にする、「空っぽ」になるためには、

「質的な違い」を意識して、

「彼らは私とは違う。私には彼らのことがよくわからない」というゼロの地点から

スタートすることが必要なんじゃないかと思う。


そんな私の「こだわり」なんだよね。


空っぽになりたい。

いつのまにか、わかったふりをしている自分が怖くなる。