スーパースターの突然の訃報
先日7月24日、アメリカプロレス界のスーパースターハルク・ホーガンさんが、急性心筋梗塞の為フロリダの自宅にてお亡くなりになりました。
71歳でした。
プロレスが詳しくない方でも、独自のヘアスタイルにトレードマークの口ひげ、そしてハルク・ホーガンという名前と顔はご存知の方もおられるのではないでしょうか?
今回は、半世紀活躍した知られざる稀代のスーパースター、ハルク・ホーガンをご紹介したいと思います。
プロレスラーとしての天性の資質
1953年8月11日、ジョージア州オーガスタで生まれた、テリー・ユージーン・ボレア(のちのハルク・ホーガン)は、小さい頃から大柄でリトルリーグで活躍しました。
足が遅く、運動も苦手だったことから、高校でボディービル、大学で音楽バンドのベーシストに転向したのですが、大柄でマッチョ。
そして、エンターテイナーという気質もあり、プロレスラーの道を目指すのでした。
後にインタビューでも語っていますが、身体を大きくするのは「毎日庭でジャンプをすればいい」だけだそうで。
「トレーニングとビタミンと神への祈り」さえ大事にしていればいいとも、口ぐせのように言っておりました。
卒業後、日本人のヒロ・マツダに指導を受け、77年24歳の時にプロレスラーデビュー。
まさにここから約半世紀に渡るスーパースター伝説が始まりました。
最初は覆面レスラーをしたり、本名のテリーを名乗っていましたが、201cm/約130㎏(全盛期)の巨体と、TVドラマ「超人ハルク」の影響から「ザ・ハルク」のニックネームを用いるようになり、79年12月にアメリカ最大のプロレス団体WWFに登場をきっかけに「ハルク・ホーガン」と改名。
かみつき鬼フレッド・ブラッシーをマネージャーに、ヒールレスラー(悪役)として連戦連勝し華々しいWWFデビューを果たしました。
翌年80年に、提携していたアントニオ猪木の新日本プロレスに参戦。
アメリカと日本を行き来しながらのプロレス生活を行い、徐々に日本を主戦場として大ブレーク。
82年公開の「ロッキー3」に出演し、83年にはアメリカ「MTV」で肩に乗せて歩く姿がとても印象的だったシンディー・ローパーと出演。
また、日本でホーガンが叫んでいた「イチバーン!」の掛け声はアメリカでも有名になりました。
日本からアメリカへ逆輸入
80年代は、アメリカと日本の行き来をしながらプロレス生活を送っていたハルク。
アメリカでは、WWFからAWAという団体に主戦場を移し、王座を戴冠することはなかったが実績を積み人気を博すことに。
WWFに戻ると、トップレスラーとして「レッスルマニア」(後に41回続く毎年恒例の人気イベント)の主役として大活躍。
当時、ドラマチックなストーリーや、レスラー同士のドラマな展開が社会現象を呼ぶほどの大人気になり、約2万人動員数も第三回大会で約9万人以上を動員する興行となりました。
また、日本ではアントニオ猪木を始め、タイガー・ジェット・シンやスタン・ハンセン、アンドレ・ザ・ジャイアントなど名だたるレスラー達と激闘を繰り広げ、ベビーフェイス(善役)として確固たる地位を築くことに成功。
83年にはIWGP決勝戦にて、猪木をKOし初の優勝。
それから二年後の同大会では猪木に敗北し、これが猪木との最後の戦いとなりました。
同年10月を最後に新日本プロレスを離れることに。
それまで、巨体を振り回すだけのパワーファイターと思われていたホーガンも、この来日での経験がテクニカルなプロレスラーとして一層華開き、その器用さがアメリカでの更なるスーパースターとしての成功へ導いたと言われている。
まさにスーパーエンターテイナーを技巧派として逆輸入したホーガンにおける重要な期間でした。
紆余曲折のプロレス人生
半世紀に及ぶスーパーエンターテイナーの最終章
2024年には、アメリカ大統領選挙に向けた共和党全国大会に登場。
壇上でTシャツを破くパフォーマンスを見せ、ドナルド・トランプの支持を呼び掛けた。
だが、半世紀にも及ぶハルクスターとしての活躍は、身体を満身創痍にしていました。
この10年間で、背中を10回、両ひざと股関節、そして肩など計25回ほど手術を受けていたホーガン。
亡くなる2ヶ月前には頸椎固定の手術をしたが、合併症が影響で健康状態が悪化。
翌月6月には心臓の手術をしましたが、7月24日に急変。
急性心筋梗塞の為、帰らぬ人となりました。
稀代のエンターティナーであり、スーパースターとしての代償は大きかったが、
人々に与えた夢や希望はそれ以上に大きいものでした。
湾岸戦争や9・11テロ、イラク戦争など、アメリカにとっても過酷な歴史の中で、
勧善懲悪の象徴ホーガンは、アメリカ国民にとっての本当のスーパーヒーローだったのかもしれません。
スーパースターよ永遠に。




