わたしがわたしとして、
生きていく、
今までの人生、古い自分を捨て、
彼とともに生き、
ほんとうの自分に戻っていくこの過程において
きのう、ある自分を見せてもらいました。
社会の価値観、
親の価値観、
そういったものに、からめとられて刷り込まれて
まるで、それを自分自身のそれと
まったく区別がつかないほどに取り込んでいる、
そのなかの小さな世界で生きすぎてしまった、
ある人。
自分自身を、見つめようともしない人。
その人なりに、
些細な抵抗は、してきた。
(こっそり影に隠れて)
けどやはり、結果的にはそこから、
まわりが決めた価値観の世界から
決して出ようとはしなかった。
いつも、たくさんの言いわけを用意しながら。
最近は、そんなその人を見ていて
とても情けなく、
みじめで、ダメな存在のようにしか
思えなかった。
でも、その人は、
実はわたし自身の一部。
わたしの中にずっとあって
いよいよ、その人を手放すときに来ている。
その人は、きのう言った。
「すっぱい葡萄は、
もともと、欲しいものじゃなかった」と。
理由は、もっともらしかった。
世間一般的に言えば、ひょっとして
同感な人も、いるのだろう。
むかしむかし、その人に恋人の話をして、
「B型(血液型)とA型は、合わない」
と言われただけで、
グラグラして結果的には
(理由はそれだけではないが)
離れてしまったくらい
軸がなかったわたしだったら、
もうすこし衝撃があったかもしれない。
でもいまのわたしはちがった。
すぐに見破れた。
わかりやすかった。
そしてさらに、
その人がわたしに、そう伝えることで
ジャッジすることで
少しでも気が晴れるなら
心の痛みを、悲しみを見ずに済むのなら
それもいいかと思えたのだ。
その人は、たぶん自分では意識していない、
心底「自分自身」=「世間の価値観」
だと思っているのだろうけれどわたしには
「わたしはすっぱい葡萄なんてもともと欲しくない。
だからあなたがそれを、
手に入れてもなんとも思わない。」
と伝えたいようにすら、感じた。
以前は、向き合わないその人に、
苛立ち、憎しみすら、感じていたのに。
そのように感じたのもやはり、
自分自身の一部だったから。
なにひとつハッキリ言わない、その人なりに
伝えようとしているのが、今ならわかる。
そういう生き方、人生も、あるのだ。
よく、洋画を観ていると
亡くなった人を埋葬して
みんなで一本一本、お花を捧げて
別れを惜しんでいるけれど
いままさに、あの感じで
古い自分と今までずっと、それを見せてくれたその人に
感謝と祝福を、送っている。
