先に自ら思考することが尊いという整理をしたけれども、よく先達の模倣をすることの優位が唱えられていることから、この点も少し雑に考えてみたい。
まず、自身の頭で考えながら模倣を取り入れることの意味はどのようなところにあるだろうか。
そのとき、おそらく思考はその模倣の対象に思いを巡らせながらも、結局は自身の思考の前提の中で、自身の延長線としてその対象を捉えているにすぎないことが想定される。
そうであるならば、その模倣は、思考することのネタを一つ提供しているに過ぎないのだと思う。
あくまでも自身の頭で思考するのであれば、おそらくその対象の意図するところを読み取れているか読み取れていないかも確かめることのないまま、自身の構築する論理を重視していくことになるだろうから、その到達点は、模倣対象と同一とは限らず、自身で出した独自の結論に至ることもあるだろう。
その意味において、模倣は、自身の頭で思考することと変わらないであることから、さほど意味がないように思う。
もう一つ別の観点を考えると、模倣することで、模倣対象と同等の成果を得ることと、模倣対象とはまったく異なる成果を得ることがありうるだろうが、そのことに意義はあるだろうか。
つまり、模倣するということは、模倣対象はその道の先達であり、身近な存在にせよ、遠くの存在にせよ、きっと模倣者が持たない何らかの特性を持っているものと思われる。そして模倣者は、その特性を何らかの理由により得たがっているため、いわゆる、既に正解に達しているであろう模倣対象の模倣を行うものと思われる。
俺は、成果の類いを重要視しておらず、何らかの成果を得るよりも、それよりも自身が思考して何かしらの知的好奇心の類いを満たすことの方が重要だと、尊いものだと考えている。この広い宇宙の中で、またこの長い時間の中で、それを成果ととらえるのは、その何かしらに心がとらわれているからで、もしも、宇宙の中のまったく環境のことなる状況にいたのであれば、その成果というのは、何も評価されない可能性があり、また、同じ地球だとしても、時代が異なるだけでその成果には何の価値もない場合だってありうる。
価値があることは、それを発見することだと思う。悠久から見たとき、発見されたものそのものに価値のないことが想定されるだろうから、そうであれば、成果というのは何かに依存したものにすぎず、であれば、思考の上では、本来目指すべきものでもないだろう。
であれば、模倣対象と同等の成果を得ることには大した意味はなく、また、それを目指すことそのものにも大した意味はなく、模倣ということからは、思考のネタが得られる程度のことのように思われる。
次に、自らの思考を一時停止させ、模倣対象になりきって模倣してみた場合を考えてみる。
これはいわば、1人の人間が2人になることに相当するのではないかと思う。
完全になりきって模倣するためには、自己の思考ではなく、模倣対象の前提、思考方法、行動様式、価値基準をそのまま使うということであり、その果てには、模倣対象が自身の中に生まれるということだと思う。
この類いの模倣の先には、思考のパラダイムシフト、思考のさらなる拡張、なんと表現して良いかわからないが、ものすごい可能性が眠っているように思う。
これまで一人の人間として自己にとらわれていた思考が、対象を広げ、これまでまったく見てこなかった領域まで至るのではないだろうか。
その先には、凝り固まった思考のクセのようなものを洗い出し、それを改善することができることにとどまらず、他者が長い時間をかけて獲得した価値観のようなものを理解し、自己認識の枠を広げ、自我の制約の外れた思考ができるのではないだろうか。
そうだとすれば、模倣には十分過ぎる程の意義があるように思われる。