浅野和三郎 ~あの世においても、さらに上位の世界の存在を信じる、という行為があるらしい~ | LEO幸福人生のすすめ

LEO幸福人生のすすめ

幸福の科学一信者のブログです。
幸福の科学での学びを中心として、
読んだ本や、観た映画の感想などを書いています。
面白くて~わかりやすく、ためにもなるブログを目指しています!

 

 

浅野和三郎(1874-1937)、1928年の著作。いまから100年近く昔に発刊された書物である。

そこに収録された、西洋の霊界通信からの抜粋より。

 

問  霊界にも地上に存在するような書物がありますか? 

 

答  ありますとも! いかなる微細な事でも記録に漏れることがありません。我々よりも以前に霊界に住んでいた人々の歴史や伝記などもすっかり揃っております。

 

あの世にも、本があるのだという。

本好きの私としては、嬉しい、楽しい、霊界の真相です。

むろん、あの世の本だとか、本屋だとか書庫だとかいっても、それは人間的に翻訳されたかたちでの象徴、表現形式に過ぎないのかもしれませんが、

あの世に帰って、人間様の姿をして生活をすることになったら、霊体の自分が霊エネルギーが結実した形であらわれた、あの世の本を読めるかも、というのは、楽しい将来への期待ですね。

 

あらゆる事象がすべて記録されている、歴史も伝記も、というのは、アーカーシャの記録のことになるのでしょうね。人類の歴史、世界の歴史だけでなく、無名の個々人、わたしや貴方やその他、すべての存在の個性の記録が、きちんと残っている。

 

生きることは無意味ではない。神の書庫に記載されていて、自分でも振り返ることが出来るようになっている。それに相応しい心境、心構えと悟りがあれば、の条件づきだとは思いますけどね。

 

 

霊界の文字は … (中略) … どの記号も一つの思想を表現している。もちろん記号そのものはどうでもよいが、これを手がかりに、その裏面に言い表された思想を汲み取るのが肝要で、読む人の感じが発達すればするほど、深い意味が読めるのである。つまり、同一の文字を観ても、その人の能力の程度によって、意味の大小や深浅が発生するわけで、その辺の呼吸は非常に説明がむずかしい。

 

これは、霊界の書物、そこで使われている霊界文字、あるいは本自体について。

そこに書かれた内容を、どこまで深く理解できるか、読み取れることが出来るか、というのは、読み手の能力にかかっている。読解力ですね。

 

この世においても、同じ本を読んだからって、みなが同じレベルで読めているわけではない、わけですからね。

深読み出来るだけの力があれば、同じ聖書を読んで、非常に深い心の教えを読み取ることが出来るでしょうけれど、

言葉の表面だけをサーっと読み飛ばして、そこに込められた精神的なる意味、精妙なるニュアンスを読み取る力がなくば、猫に小判、になってしまって、100のうち、2も理解していないのかもしれません。

 

読み取る力こそは、精神性の深さ、その人の魂の悟りのレベルそのものだと思えるし、自分の得意分野には深い理解力があっても、苦手な分野では全くの理解欠如を露呈したりと、自己修業はそう簡単に完成するものではない、ということが、以上のことからは想像されますね。

 

この世の本でも、即物的な事象の話なら、そう難しくはなく、ある程度万人が似たレベルで理解できるのかもしれないけれど、精神の問題、心の問題について書かれた本となると、まさにその読み手の人の精神性の深さがそのまま、読解力に比例してあらわれるだろうな、と思いますしね。

足し算引き算だったら、たいていの人には理解できても、高度な数学になったら、それだけの能力鍛錬を終えた人でないとわからないように、仏典の奥義や聖書の詳解などは、それについて書かれた本を読んだからといって、誰もがわかるわけではないでしょう。

上の譬えで言ったら、微分積分の解法の参考書を、6歳の児童が読んでも、目を通すことは出来ても、理解はまったく出来ていなくてチンプンカンプン、ということがあるように、深遠な内容の思想書を読んで、あーでもないこーでもないと感想を述べたからといって、それが的外れの感想だったら、この読者はやはり、その著作を理解しているとは言えないでしょうしね。

 

 

太古に於いて天使はしばしば人間界に出現したのですが、だんだんこれを信じるものが無くなったのです。我々の住む世界に於いてさえもが、更に一段上の世界の存在を疑うものが次第に多くなり、それらの不信者は天使を疑います。仮に神ご自身が出現されるとしても、それが果たして神そのものであるかどうかを疑うでしょう。神の資格を証明するような、信任状といったようなものは、どこにもありません

 

このくだりも面白い、というか、興味深いですね。

 

いま地上に生きている人間で、天使という存在が本当にいるんだ、ということを信じている人は、どれだけいるでしょうか?

そんな、天使なんているわけがないじゃないか、という人はごまんといるでしょうけれど、これはあの世に帰っても、同じことらしい。

 

ふつうの天国、一般の人が帰る天国に、もし自分が帰ったとして、そことは違う、さらに高次の天界があるのだよ、ということを、素直に信じることが出来るだろうか?

あの世に帰ったら、そこに馴染んでしまって、そこが全世界であって、そことは別の世界が実は存在するのだ、ということを全く信じられないという魂、そういう魂はたくさんいるそうですからね。天国でもそうらしい。

5次元世界があの世のすべてになってしまって、6次元とか7次元なんて言ってもわからない、そんな世界がほんとにあるんかなー、みたいな状態なのかもしれないな、と。

 

あの世においても、自分中心の狭い視野で生きてしまうと、それ以外の世界があることを素直に信じられない、というのは、この世と似たようなものらしい。やはり認識力の問題というのが、どうしてもあるようです。

この世において、あの世の存在が信じられない、という人がいるのと同じように、あの世の天国に住んでいても、さらに別の天界、高次元の世界、さらにはそれらを統べる神仏がいらっしゃるということを、どこまで信じられるか。

見ることは出来ないでしょう。そうそう出逢うこともないでしょう。だったら信じるかどうかが全ての鍵であって、目の前に神があらわれなければ信じられない、という判断に陥ったら、この世の無神論者と基本的には変わらないような態度に陥っている、ということにもなりかねませんね。

 

不信者――信じることが出来ない人間は、天使などいない、神などいるものか、などと言っていたりするけれども、あの世でもそういうことを言っている人はいるわけで、そういう認識レベルというのは、よくても四次元幽界の精霊界くらいの認識でしかないだろうし、たいていの場合は、そこは地獄なのではあるまいか、ということになるかもしれませんね。

 

疑う心、信じない心、そういう心的態度の人であっては、

たとえその人の眼前に、神ご自身が現れてくださったとしても、それが神であることをこの人は理解せずに、疑うことでしょう。

皮肉にも、そういうことが、この霊界通信では述べられています。

まず疑ってかかる、信じることが出来ない、という猜疑心や疑心暗鬼の心の問題性が、ここでは指摘されている、と見ることも出来ますね。

これは現代においても、いっそう顕著な特徴とも言うべきで、まず疑ってかかる、容易に信じようとしないタイプの人が死んだ場合の問題点にも、つながりますね。

僧侶やシスターが現れて、あなたは亡くなったのですよ、と話しかけられても、あんたたちなんか知らない、自分を騙そうとしているのか、怪しい宗教の回し者ではないか、と疑ってかかり、せっかくの導きを自分自身で振り払ってしまって、迷いの中で煩悶することになるかもしれませんね。

 

 

見て理解するまでは何も信じないということを原理として仮定する人間は、決して信じるということができない。なぜなら、霊的で天的なものは見ることも、想像力を用いてとらえることもできないからである。しかし人間にとっての真の秩序とは、主、つまり主の聖言によって賢明になることである。そのとき人間は、理性や記憶的知識に属するものさえもが啓発されるのである。

 

あの世においても、より高次元の世界は、現出するものではないし、霊である自分の霊眼に明らかに「見える」ものではない。

 

高次元の偉大なる存在を、信じることが出来るか。神仏に帰依することが出来るか、というのは、やはり同じく、どこまで行っても、信仰の大切さ、ということは変わらないかもしれませんね。

明確にわかるものしか認めない、という態度は、こうしてみると、いかに自分の視野を狭める愚かな態度であるかが、わかるかと思います。

 

 

それから、あの世のどんな世界に帰るかは、生前信じていた宗教によって分かたれている、とも言いますね。

仏教徒だったら、仏教的な魂たちが住まう、そうした霊界へ。

クリスチャンだったら、キリスト教的なる霊界へ。カトリックやプロテスタント、正教かの違いによって多少住む世界が違ってくるかもしれないけれど、理解において間違いがなければ、基本的にはキリスト教の光のなかの、そうした天国に帰るのでしょう。

もし信仰において大きな間違いがあったり、人生で悪事をやらかして地獄へ行くことになっても、それでもキリスト教的なる光のもとで、救済の手を待つことになるのではないかなぁー。わたしの理解では、そう予想されるのですけれど。

幸福の科学のまっとうな信者として一生を終えられたら、その魂は、あの世の幸福の科学霊団のなかに入ることになるらしいですからね。

正しい信仰と愛に生きたら、天国へ帰って学びを続けられるのだろうし、もしトンデモ理解をしていて人生を誤って地獄に堕ちても、その人をいずれの時にか導いてくれるのは、やはり幸福の科学の霊団から降りてくる光によって、その使者によって、ということになるのかなー、などと思いつつ。

そういう意味で言ったら、信仰の世界に入るということは、やはりその神のもとに入って生かされていることを知る、そのことへの感謝があって、はじめて天国の入り口かなー、とも思うわけです。

自我我欲で変なエリート主義に酔いしれてしまったら、地獄の可能性が大かな、とも私は思うけれどね。

 

自己中心な魂、エゴイストは地獄に堕ちるというのは、その人が外的な意味で、どの宗教に属しているかとは別に、心が間違っていたら堕ちますからね。

 

地獄の社会は、エゴイズムとエゴイズムが共働する奇妙な世界であるため、支配と被支配の繰り返しであり、悪人同士が悪で悪を罰し合うという構図が出来上がる。
こうしたせめぎ合いに疲れ果てて、彼らはいっときは地獄にいる自分を嫌悪するかもしれない。しかし自己愛や世俗愛が変わらないかぎり、たとえ天界の社会に行っても、やがて反感を抱いて自ら地獄に帰ってゆく。

 

エゴとエゴのぶつかり合いが地獄を生むわけで、エゴイストの心は地獄の心そのものでしょう。

自我我欲で自分中心で生きてしまえば、その人は他の人と相和して、心から成る調和の世界には相応しくなくなってしまう。

エゴイスティックで醜い自己中心の魂は、地獄に堕ちること必定。

そうして地獄で苦しんで、もう嫌だといって天国へ入ろうとしても、調和した心を取り戻さないあいだは、入ろうにも天国には入れない。

 

自己愛や世俗愛が変わらないかぎり、たとえ天界の社会に行っても、やがて反感を抱いて自ら地獄に帰ってゆく。

 

とありますね。

自分中心の心、エゴイスティックな心、それから、この世的なる物質欲、名誉欲、性欲、金銭欲、その他の欲に翻弄されて、それが満たされない心で苦しんでいるような心境であっては、やはり天国には入れない。

 

天界の社会に入っても、反感を抱いて自らそこを立ち去らないといけなくなる、というのは、追い出される、というニュアンスとは違って、

天界の倫理やルール、考え方に反発を感じて拒否する人は、そこで仲良く暮らすのに相応しくないので、自分で出て行く、という意味にも取れますね。

これ、幸福の科学の信者となって、そこで法友たちと相和して暮らせている人は、天界の幸福の科学霊界でも同じように仲良く暮らせるのでしょうけれど、

そうではなくて、幸福の科学なんてインチキだ、信者たちの考えはおかしい。なんていってケチをつける魂は、到底、このような仲間たちと一緒には、暮らせない、ということにもなりますよね。

反発を感じている人間は、価値観が合わないことでもって、みずから立ち去らざるを得ない。

これは、あの世でもそうであるし、この世でもまったく同じようなことが展開しているな、と感じざるを得ないところがありますね。

 

その時の自分の考え、心境が、奈辺にあるのか。

その心の状態、思考内容、考え方の傾向性は、どの霊界につながる魂状態であるのか。

まっとうな天国でしょうか。それとも、裏側の天狗界、仙人界、といった世界につながる少しズレた考え方でしょうか。

はたまた、地獄に堕ちるような、神仏の意図や願いに反する、反逆した精神になってやしないでしょうか。

他の人たちを迷わせ、苦しめるような生き方をしていたら、危うい、と言うしかないでしょうね。