ブログ記事を書き続けてゆくことの意味は? | LEO幸福人生のすすめ

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幸福の科学一信者のブログです。
幸福の科学での学びを中心として、
読んだ本や、観た映画の感想などを書いています。
面白くて~わかりやすく、ためにもなるブログを目指しています!

トルストイ選の箴言・名言集から引用しつつ、それについての私的な理解を綴る、という記事を随分書いているけれども、

この手法は、何かの言葉を取っ掛かりにして自分なりの思考をする、という訓練にもなるものだと思っています。

 

まるごと全てコピペでは、紹介にはなっても、そこには自身の思索はゼロに等しいので、それでは自分を鍛えることにはならないでしょう。

だからまるごと複製するばかりというのは、わたしは全く評価しない、そういうことばかりやっていては、いつまで経っても自身の思考力は進歩しないでしょう。そう思っている。

 

短い文章。2行でも3行でもいいけれども、そうした文章を読んで、良い文章だと思った。素晴らしい格言だと思った。

では、なぜ、そう思ったのか。

自分は、この格言のどこに、そんなに感銘を受けたのだろうか、といって、その文章の意味を自分なりに読み解いて、

わたしはこの文章を、このように読み、このように理解して、だから素晴らしいのだと思うのです、という風に、

自分の思考プロセスをそのまま文章化して、それを記事にして書いてみる。

 

これはある意味で、本の読み方の開示にもなるだろうし、ものごとを考えるというのは、どのような論理プロセスを経て考えることが、よりよい思考になってゆくのか、という自分なりの追及ですね。それをやっているのだと思うんですよね。

 

そうして、その思考プロセス、自分なりの思考プロセスの開示が、単に自分一個における趣味や、独りよがりの思いなしで終わらないものであるのかどうか、そこに、他の人にも役に立つような、大切な考察があるのかどうか、普遍的に価値あるものが何か発見されているのかどうか、ということは、

 

どういった人たちが、その記事に興味を持って、読んでくれているか。熱心に読んでくれているか。真剣に読んでくれているか、という、

そうした、読んでくれている人の反応のところに、それは現れてくるものだと思いますしね。

 

誰にも読まれないような閑散ブログであっては、そこに価値あるものがあるとは言えないでしょう。

価値のある文章を一つ二つ、というのではなしに、いくつも書き続けていって、数十から数百、千を超えて数千と書いていったら、そこには、その書き手の人の考え方が、ある程度、網羅的に開示されてくるはずであって、それこそ内面の開陳ですね。

 

そうして出来上がった、ブログ記事の山は、全体を見れば、どういった山なのかがわかるし、個々の記事を見れば、その人の個々の物事へのアプローチの仕方、洞察、理解についてが明かされているに違いないですね。

 

素晴しい文章を書き綴ることが出来れば、それを好んで読んでくれる人もまた、同じような心情を持った人たちが集まってくるものでしょう。

その反対に、不平不満ばかりであったり、ろくでもない主義主張をしている人のところには、これまた同じような不平不満の輩か、ろくでもない根性の人しか集まってこないでしょう。というか、まったく集まってすらこない、という哀れな顛末になることも多いに違いない。

そういう意味でも、本職の文章家ではない人の発言、ブログであるとか、Twitterであるとか、そういった個人発信のものへの注目度、人気というものにも、淘汰の力が働いて、善きものは注目され、悪しきものは嫌われる、という結果が現れるに違いありませんね。

 

善きものは、善き人たちに好まれ、大いなる感化力をもって世を潤してゆく。

悪しきものは、悪しき者にのみ好かれるが、決して繁栄することは無い。

というのは、永遠の真理だと思いますね。