わたしは、新しいご法話だけでなく、過去に説かれた古典名著にも目を通したいと思い、だから時々そういう書を探し求めては、読んだりしている。
先人たちが過去為してきた業績を知ることで、それを踏まえつつの現在であることがわかるし、すでに過去かなりの解明を為した人があったにも関わらず、なおそのことが世間に知られること少なく、世の常識となるところまではなお遠かったのだな、と思うにつけ、精妙なる深い思想の伝播の難しいことを、あらためて思うのである。
浅野和三郎さんの著書は、『小桜姫物語(1937年)』にも非常なる興味を引き付けられて、何度か読んだりしたし、「神霊主義(1934年)」とかいう書籍も紙の本で読んだことがある。
こちらの『心霊講座(1928年)』というのも、著者の代表的な著作だそうだが、これは現代語訳されているものなので、非常に読みやすいですね。
で、当時、浅野和三郎(1874-1937)存命当時の、霊的思想に関する詳細な報告と、これらの霊界知識がいかに重要かということを、浅野さんは縷々述べているのだけれども、
なかでも、モーゼスの霊界通信、自動書記の内容のところがやはり、今読み返してみても、実に深く重要なことを述べているので、あらためて引用紹介したく思った次第。
モーゼスの霊訓は、以前、連続記事でたくさん書いているので、引用内容は重複しているかもしれないけれど、価値あるものは何度言及しても、言及しすぎるということもないでしょおうから。
以下、モーゼスに自働書記を行なわしめた、天上界の高級霊よりの言葉。
神の命によって今回我らは真理を伝えようと懸命の努力を捧げつつあるのである。しかし、今も昔と同じく、我らの努力は 雲霞 の如き大敵から必死に阻止される。世界の歴史は要するに善と悪との葛藤の物語である。この 葛藤 は時に最高潮に達する。現時は正にそれである。今や神の使徒の大軍は力を合わせ、心を一つにして地上の人類を感化し、知識を広めることに着手した。離反者、意気地がない者、 日和見、ものずき……それらの者どもにとって正に恐るべき時代である。
ステイントン・モーゼス(1839-1892)は、19世紀の人なので、まさに前前世紀の英国スピリチュアリズムの時期に、中心的な働きをした人物です。
したがって上記の霊界通信は、1800年代の終りということであって、今から120年以上も前に天上界より降ろされた通信内容、ということになりますね。
しかして、この文章を読むと、まさに今、この2021年という時代にも、そのままこの文面は適合しているのではないか、と思えて仕方がありません。
神の命を受けた者たちが、地上世界に真理を降ろさんとして、働きを始めている。
それを邪魔だてする勢力あり。思えば、世界の歴史はかようにして、善が勝利するか、それを潰さんとする悪の跋扈を許してしまうのか、そうした善と悪とのせめぎ合いの物語であったとも言える。そのような総括がまず為されています。
地上における、善と悪の対立。善が勇ましく進軍を始める時、悪もまたこれに対抗するに勢力を結集して、大軍同士の戦いが始まるかのような説明、活写。
神の使徒は、真理を弘めんとして、心を一つにして人々への感化のための努力をする。
それに対して、離反する者あり、日和見する者あり、興味本位で揶揄する者あり、という風にして、まさに現代でも同様のことがあるように見受けれられます。
地上には、過去の教えを以って満足することができず、ひたすら真理を渇求してやまぬ者もまた少なくない。
神は常に求むる者の天分に応じて教えを垂れられる。見よ、神の秘蔵の児は常に地の卑しき所より 蹶起 して、その優れたる体験、その 秀でたる悟りの福音を天下に伝えつつあるではないか! 真理の流れは、最初はあくまで細きを常とする。が、幾条の細き流れは、やがて相合して全地に漲り、現在汝らを悩ましつつある、無智、不信、愚蒙、罪悪の汚濁を一掃してしまうのである。
過去の偉大なる教えにも、無論、深き真理が含まれている。
しかして、時代適合性を失っている部分が出てくることは否めず、形骸化した教えではさらに、多くの人を導く教えとは成り得ない。
そのため、いま現在の人々の希求に応えるべく、新たなる教えが時代の要請に応えて、説かれるようになってくる。それを教えてくださる偉大なる魂たちの降臨。
こういった方々の教えを、心素直に聴き、受け入れ学ぶことが何処まで出来るかは、教わる側の天分、心構えに応じてのことになる。聴く側にも当然の如く、それを聴く資格ありや、の責任が問われるのだろう。
先に挙げた如く、離反する者、日和見する者、揶揄する者、などが出る中で、あくまでも真剣に、真摯に、敬い心を忘れず、感謝の気持ちと素直さ、勤勉さを備えて敬虔なる学びの姿勢を忘れぬ者にしてはじめて、ここで述べられた、求むる者の天分に応じて、という部分が満たされるのだと、わたしは思う。
真理は初め、小さく細い流れから始まるが、それがやがて大きなうねりとなって、世を潤し、多くの人たちの心へと伝えられてゆくという、いつの時代も同じ真理の伝播の順が語られている。
真理を正しく受け取り、それを学び実践することで、わたしたち人間が悩み苦しんでいる、無知ゆえの悩み、不信から来る苦しみ、罪悪という名の汚濁が、一掃されるのだ、ということ。
次にある、新しい啓示と、昔の啓示には何か違いがありますか? という問い、それへの答えもまた、普遍的なる真実の答えが出ていると、読んでいて思い知らされます。
問 新しき啓示と昔の啓示とに何らかの相違がありますか?
答 啓示なるものはことごとく神から出る。新旧によって何ら相違のあるはずはない。ただ必要に応じて深浅の差を生じるまでである。矛盾と見えるのは神の言葉にあるのではなく、これを受ける人間の心に存在する。
人間は常に神の言葉に手を染まずには 措かない。自己の注釈を以ってこれを包み、自己の 臆断 を以ってこれを隠し、歳月の経過するにつれて、いつしか全く別個のものを造り上げる。啓示と称するものが、ややもすれば矛盾に富み、人間的な臭味を放散するのはこれが為である。
かかるが故に、今新たに天啓が現れるに当たっては、まず古き基礎工事の上に人為的に築き上られた、数々の加工物を除去しなければならぬ。破邪と顕正とは常にこのようにして提携する。
すべて神の教える真理は 何人 にも強いられることはない。人間は常に自己に具わる天賦の叡智を働かせて、真理とそうでないものとを判断せねばならぬ。真理が一時ほとんど全く影をひそめ、ただ特殊な少数の人たちによってのみ 擁護 される時代が、時として出現するのはそうしたわけである。
モーゼの時代がそうであった。イエスの時代がそうであった。パウロの時代がそうであった。古今東西の先覚者の現れた時代はことごとくそうであった。
神は常に変わらぬ。神は常に 与える。ただ押し売りはせぬ。それ故に準備されたる者のみが天命を享ける。叡智なき者、資格なき者はこれに与からぬ。現在の汝の悩みも、要するに真偽正邪の 篩い 分けの必然的な道程にほかならぬ。すべからく現代を超越して未来に希望を繋ぎ、決して勇気を失墜してはならない。
さまざまに説かれる神の教えが、たがいに矛盾し、争いの種になることがあるけれども、そういった違いや矛盾は、神の言葉にあるのではなく、人間側の問題である、と述べられていますね。
人間は、神の言葉に手を入れる、加工する。時代を経れば経るほど、余計な付着物が増えていき、本来の教えとは違ったものへ転化していってしまう。
本来の教えを深く知るための解説ならばいいのだけれど、間違った解釈や曲解を付け加えて、真理を捻じ曲げる、本来の教えに反するところまで落としてしまう、という人間側の過ちが行われるので、そのことも真理が時の流れの中で、救済力を失ってしまう原因となっているのでしょう。
仏教も、数百年後の時代になると、哲学的な解釈が入り込み過ぎて、学問化しすぎたところも出て来たと言うし、20世紀ともなると、唯物論・無神論的立場から仏教を解釈して、仏教をそういった思想の一種にまで貶めた似非学者も多数現れてしまったりして、
しかして神は、真理を何人にも強いることはない、とあります。
各人が、自分に具わった天賦の叡智を働かせて、それが真理であるか、そうでないまやかしものに過ぎないかを、自分で判断せよと。そうした直観の働きと、正邪の判断力を備えることも、長きにわたる転生をしてきたことの意味であるわけだから、誰もが一目見たら了解するような、真理の証明印のようなものが付いているわけではなく、その教えを聞いて、本物かそうでないかくらいの違いは見抜け、感じ取れ、ということかと、わたしは思います。
人々のあいだで、真理が見失われてしまった時代には、迷妄の中で光輝いている真理を見て、それが真理であるとすぐにわかる人は少ない、ということ。モーセの時代も、イエスの時代も、パウロの時もそうであった、と述べられています。
問 地上と交通する霊魂の性質を問う。
答 地上と交通往来する霊魂の多くは、地上に最も近い最下の三階級から来る。それは最も容易に人間界と交通し、感応することができるからである。
我らの如き高級のもので、たまたま地上に降るのは、人間界の霊媒と同じく、これに適した特殊な天分を有する者にほかならぬ。
無論我らは人間界に於いて自己と共鳴感応する、優秀なる敏感者を求めねばならぬ。不幸にして、地上にはこの条件に適える敏感者が少ないために、高き霊界と人間界との交通は、往々にして途絶し勝ちとなることを免れない。たとえ途絶しないまでも、時としてムラができるし、また時として不純性を帯びる。汝らの想像するように、霊界通信の多くが必ずしもニセモノではない。多くの場合に於いて、顕幽の交通機関の不備がその主因を為すのである。
霊界通信の難しさについての言及箇所も、興味深いことがすでに述べられています。
地上と通信しやすいのは、地上に近い低位霊界の霊魂であって、わたしたちのような高級霊界のものは、逆に通信を送りにくい。地上の人間も、通信をキャッチしにくい、感応しにくい、と述べています。
高級霊界からの通信やメッセージを受けられるほど、心純粋にして美しい心情の人は滅多にいないので、それゆえ高級霊界と地上世界の交感が途絶しがちになるのだと。
悪霊についての言及も、いま私たちが知ることの出来る悪霊に関する知識と、基本的に違うところはないな、ということが分かるかと思います。
問 悪霊についての教えを乞う。
答 いわゆる悪霊と称するものは、邪悪なる人物の霊魂にほかならぬ。
霊魂はすべて生前とそのままの性質を帯びて霊界生活に移る。その趣味、習慣、愛憎など少しも変わるところがない。変わるところは、ただ肉体が有るか無いかに過ぎぬ。
死んだ後の霊魂、魂だけの姿となった霊魂は、生前の性質、生前の考え方そのままで、霊界での生活に移行するものなのだと。
趣味、習慣、愛と憎しみに関しての傾向性、そういったものは、生前の傾向そのままに受け継いで、あの世でも同様の考え方をする霊人として、存在しているのだと。
ただ地上との違いは、肉体に宿って生活しているか、それとも、魂だけの状態で暮らしているか、それだけの違いであると、そういうことを言っていますね。
そうして、地上での習慣、魂の習性というのが、どれほど重要なことであるのか、ということが続けて述べられています。
とりわけ恐るべきは生前の習慣である。個性の主要部を構成するものは実にこの習慣である。
霊性にしても、いったん肉体の欲望に服従したら、終いにはその奴隷とならなければ止まらない。彼らは帰幽後に於いても、ひたすら酒色の巷に憧れ、淫楽の満足を求める。そうした霊魂が、つまり神の敵であり、同時に人類の敵であるところの悪霊である。
彼らは極悪無道の大邪悪霊を首領と仰ぎ、我らの神聖なる任務を妨害しようと日夜 肝胆 を砕いてる。人間界の悪意の発動、憤怒の勃発等は、ことごとく彼らの策動の結果であっ て、心の卑しき人間は皆彼らの捕虜となることを免れない。
肉体依存の生活に没頭しすぎて、肉体に基づく欲望に翻弄されきったような人生をおくった人の魂は、死後もそのまま、欲望の奴隷として生き続けることになる、ということですね。
あの世へ行っても、酒色におぼれ、そうしたものを求める傾向性は無くならず、淫楽にふけることで満足を得たい、と思い続ける。これを、あの世に帰ったから、もういいやといって一気に払拭できるかといったら、そうは問屋が卸さない。
悪しき習慣や傾向性は、それが出来上がって続けられて来たという慣性によって、その人の魂に付着して離れず、まさにその人の精神傾向、欲求そのものとなって、その人の霊界生活を決定する。住む場所をも決めてしまう。
こういうハメに陥った人間の魂こそは、神の敵である、という厳しい言葉が出てきています。神の敵という表現がもっとも妥当な表現かどうかはわかりませんが、神の教えに反して生きた魂、という意味では、神に逆らった者、神の教えを守らなかった者、という意味では、神に敵対するかのような人生を生きてしまった魂という意味で、当たってしまっているのでしょう。
そうして、こういう魂が、悪霊と呼ばれる存在になっているのだ、ということも述べられています。
悪魔・悪霊の暗躍についての言及あり、こうした悪しき霊が生きている人間に憑依して、その悪しき思いをさらに増幅させて、怒りや争い、そういったものを起こしめている。
心の卑しき者は、悪霊の捕虜となることを免れない。これは、憑依されて操り人形状態になる、ということですね。
以上、これらの霊的な知識は、幸福の科学の本を読めば、みな知ることの出来る内容です。
だから何も、この浅野和三郎さんの1928年の著作を買って読まずともよいし、引用されているモーゼスの19世紀の霊言を読まなくても構わない、幸福の科学の本で十分、と言えばその通り。
ただ私は、こういった先人たちの努力をもきちんと知って、そうした流れがあっての現在、という理解の仕方をしてゆきたいので、古典名著にはやはり出来る限り、直接目を通して知っておきたく思うんですよね。
先人たちの苦労を実感的に知ることも出来るだろうし、その貢献への感謝、有難さも痛感しながら、それらの古典名著を学びつつ、しかしてその視点から、現在説かれている偉大なる法をふたたび現在に帰ってきて読むと、そのスゴさがあらためてよくわかるし、過去と現在が照らしあうなかで、普遍的なる思想の偉大さをいっそう深く痛感し、そうしてまた、これが未来へと続く普遍の法でもあることが、さらにいっそう理解できるのではないか、と思うからです。