精読の大切さ、正しく理解することの重要性 ~カント哲学、漱石の個人主義、ヨブ記~ | LEO幸福人生のすすめ

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本の読み方にも、きちんとした作法がある、というか、あるべき読み方というのがあるように思う。

 

特に、思想書系、観念的な内容をつづったもの、目に見えない、即物的ではない思考世界の話。

信仰や愛、自由、責任、罪と罰、信用・信頼、その他、こういった概念の話などは、それこそ精密に、緻密に読むように注意していないと、とんでもない勘違いをしてしまったり、著者の言っていることを曲解して分かった気になっていたりと、そういう読み間違いが増えてしまう。

基本的にはまず、その著者がどのようなニュアンスで語っているのか、どういう意味説明を込めて、そこを語っているのか。

著者の言っていることを出来る限り正確に、緻密に理解することが大切だと、わたしは思う。

 

カントの著作が難しいからといって、斜め読みをしてすっ飛ばして拾い読みをしただけで、なんとなくこんなことを言っているのだろうか、という読み方は、精読には程遠い読み方というしかない。

精密に読んでいく努力をしなければ、カントの難解な表現から、言わんとしていることを的確に理解してゆくことは難しいと思う。

 

自分に都合がいい部分だけを拾って、あるいは自分に都合よく引き寄せて読むという読み方も、これも廃すべき過てる読み方だと、わたしは思いますね。

夏目漱石が、個人主義を推奨する講演を行った。その講演記録が本に収録されているけれども、その個人主義推奨という表面だけを利用して、そうか、漱石も個人主義を推奨していたのか、他人の言うことに左右されず、結局人は、自分が納得したもの、自分が信じるものに従って生きてゆけばいいのだ!

こういう早合点というか、表面的な読み方であっては、漱石がこの講演で語った内容を半分も理解していない、と言うしかありませんしね。

漱石はこの講演で、個人主義の推奨を行なっているけれども、その個人主義には責任が伴う、ときちんと述べている。

権利を主張する前には、義務を果たしているかという責任を問うている。自我の好き勝手を推奨しているのとは違う。そういうことを言っているのではない。真逆である。

個人主義を標榜し、宣言するのなら、その前に、それなりの倫理的なる自己修養を積んでいるのでなければ、個性の発展を求める価値も無し、と言ったようなことまで言及しているのですから。

その個人が、自己責任の下に任せていても安心な人、周囲からも信頼できるような人間であること、倫理的に優れている人、常識を弁えており他者に迷惑をかけないような個人であること、みずからを律することの出来ている人であること。

そういう条件を幾つもきちんと列挙した上で、そうしてようやくにして、わたしの個人主義、という演題をまとめているわけです。

だから、こういった条件をすべてスルーして見て見ぬふりをして、個人主義、権利、自由、といった自分に都合がいい部分だけを拾って、好き勝手主義を標榜するのは、夏目漱石の主張とは正反対の誤読でしかない、ということになるわけです。

きちんと精読したら、そういうトンチンカンでワガママ勝手な理解にはならないわけで、そういう点で、思想や信条、人生観に関わるような重要な話は、それこそ精密に読んで、精読する読み方に徹する必要があるわけですね。

 

旧約聖書の「ヨブ記」も、これは前半から後半に至るまで、大部分の内容は、ヨブの苦悩、それも自分に襲いかかって来た不幸、試練に対して、ヨブが感じている不満、神への不信感と訴え、に満ちています。

そうして、そのヨブの不平不満、自分の訴えは正しい、神はこれに応えるべきである、かのような主張に対して、ヨブの友人たちはさまざまな観点から注意をうながし、反論を述べて、ヨブに説教をくわえていきます。

ヨブの友人の勧告は、ヨブに対して全く効果を発揮せず、ヨブはことごとく跳ね返して聞く耳を持ちません。

これは友人たちの説得力と技量の不足、というのもあるだろうし、ヨブを責める友人たちの言は冷たすぎる、という友人たち自身の反省点ともなっている。そういう見方もありますね。

しかしてヨブは、友人の指摘を一蹴するばかりでなく、ヨブに直接答えを与えてくれない神に対しても、これは不当な仕打ちである、といって文句を言っている。神への不信、疑い、信じきれなくなった自分の心の葛藤、苦しみ、こういう姿が描かれています。

 

しかして最終的には、神ご自身が登場なされて、ヨブに答えをくだされます。その答えの威厳の前に、ヨブは自身の非を悟り、それ以前の不平不満が嘘のようにして、謙虚な気持ちを取り戻し、神の前にこうべを垂れて、ふたたび素直な気持ちで、神のもとで生きる気持ちを取り戻します。

 

こういう結末に至るまでの過程、ヨブの心の葛藤と訴え、友人たちとの議論そのものからも、学ぶことは数多いのだけれど、これは最終結論としての、神への信頼、信仰の取り戻しがあってこその、ヨブ記の価値なわけであって、神に疑いをさまざまにぶつけている時点のヨブを、全面肯定するための著作ではないのは自明のことですね。

 

ヨブ記の理解は、全体の構成をしっかりと把握した上で、その上で各章の意味合いを理解してゆくのが、正確な読み方であるし、この著作の著作者の言わんとした意味を、より正確に的確に読み取るためには、そうした精読が必須だと、わたしは思うものであります。

優れたキリスト者であっても、このヨブ記の読み解きは難しいと言われているので、そんな浅読みでもって本旨が理解できるほど、軽々しい本ではないと思います。

 

ヨブの苦悩の部分をみずからに重ねて、深く共感する時もあるかもしれない。自分の運命を呪い、神に対して不満を言いたい気持ちにもなって、そうして、みずからと神との関係を深く問わざるを得ない、そうした精神状況に置かれることもあるかもしれない。

その時に、結果的に、神を疑うままに終わったら、この人は、不満をかこっていたヨブのところだけに共感して、ヨブはなぜ改心できたのか、ということまで理解が行かずに終わった、ということにもなるでしょう。

その場合、ヨブも神に不平不満を言いまくっていた、だから神に不信感を抱いている自分も間違ってはいない、ヨブと同じようなものだ、といって、自分を正当化するためにヨブ記を利用するのは、これは違っていると私は思うわけです。

ヨブ記は、神への不信を正当化するための本ではないし、迷っていた時点のヨブを正しいといって認めている本でもありませんからね。

こうした運命の打撃や、人生の悲劇に出合って、ヨブと同じような気持ちになり、自身の運命を呪い、神への不信をかこっている人は、この世にはこれからも幾らでも出てくるでしょう。

そうした時にあって、同じような嘆きの中に苦しんだヨブの言動を読み、どのように自分に転化してゆくのか。どのようにしたら、この運命から脱却できるのか。苦しみから逃れることが出来るのか。信仰によって? その信仰とはどのようなものか。どのような気持ちになることが、正しい信仰と言えるのか。

 

三浦綾子さんは、ヨブ記の理解は難しいと言いつつも、13年も病で伏していた自分の苦しい気持ちが、ヨブ記を読むことで慰められた、と述べていたと思います。

そうして、病から立ち直ったときの三浦さんは、信仰に復帰したヨブと同じようにして、深い信仰心を持ったクリスチャンとして、キリスト教作家として、数多くの作品を世に問うて、多くの人の心を救っていきました。

ヨブと同じく、苦しみを通して、しかしてその不平を嘆くままに終わるのではなくて、それでも神へのまったき信頼と信仰の気持をもって生きていこう、と決意して、そうして信仰と愛の人生を生きたんですね。

そういう意味で言ったら、三浦綾子さんはヨブ記を正しく読んで、ヨブ記の作者の意図をしっかりと読み取って、そうしてキリスト者としての人生をまっとうしたのではないか、と思いますね。

ヨブ記の作者がその人の人生を見て、ああ、この人はわたしの書いた本の精神的なる意味を、メッセージの意味を、きちんと正しく理解してくれたんだなぁ、よかったよかった。

そう、著作者に言ってもらえるような読み方が出来ている人ほど、正しくその本を読めている人、精読してしっかりと理解が出来ている人である。と言えるのではないかと思いますね。

 

カントの著作もそう。著作を読んでの感想を書いたとして、それをもしカントが読んだとしたら … 。

ほうほう、なかなかよく理解しているではないか、と言ってもらえるかどうか。

それとも、ぜんぜん理解できていないね。10分の1も理解できていない、と言われてしまうか。

もっともカントの直接評を聴けるような機会は、読者の方も相当な霊的進化をとげて、カントの霊界講義を直接聴ける立場にならないと、得られないにちがいありませんけどね。

 

著者が言わんとしたことを、どれだけ精確に読み取れるか、理解しつつ読めているか。これがポイント、ということ。

仏法真理に関しても、その読み方は違うだろう、理解の仕方が違ってるよ、誤読だなそれは、と指摘されるような読み方であっては、これは精読できているとは言えないでしょう。

きちんと正しく読めているかどうかは、まずはオーソドックスに、他の人もそう理解しているような、そうしたごく普通の読み方、理解が出来ているかどうか、というところに現れると思いますけれどね。

そこから先の応用理解になると、これは客観的な判定が難しくなるけれども、数多くの弟子が集っている現代においては、複数の信者が理解している最低限の共通の読み方、一般的な読み方から外れないように、それがオーソドックスな読み方だと、わたしは思いますね。