弘法大師・空海が語る、心の十段階 ~第一段階について~ | LEO幸福人生のすすめ

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空海には『秘密曼荼羅十住心論』という大著があって、心の段階を十段階に分けて論じている。

この大著は浩瀚な内容なので、これを簡略化してまとめた『秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)』という著書もある。むろん空海自身が要約してまとめたもの。

 

『十住心論』を読破するのが大変ならば、まずはこの『秘蔵宝鑰』から読んでみる、というのも、空海の生前の教えを知るための、入り口になるのではないかと私は思う。

 

以前にも記事で書いたことがあるのだけれども、

 

 

『秘蔵宝鑰』の方は書いてなかったかなぁと。

角川文庫で日本語訳が読めます。

 

 

『十住心論』の中で説かれている、十段階の心の諸相。

最高段階が、真言密教を究めた境地で、秘密荘厳心の境地、と言われる。

ここに至るまでに、九つの階梯があることになりますが、

 

いちばん下のレベル、というか、最下層にあたる第一段階のところが、いわゆる本能レベルの状態ですね。動物的本能と大差無い、自己保存欲や自己保身、さまざまな欲望に翻弄される、凡夫の境涯、ということになります。

 

第一段階は、異生羝羊心、と呼ばれ、非常に難しい漢字になってますが、この字を当てている謂れと、この心境の説明を、空海がどのように語っているかを見てみましょう。

 

異生羝羊心とは、どのような心の状態ですか? という質問者の問いに対して、

 

それは、世の人々が狂酔れていて善悪のけじめがわからない状態の意味ですし、また愚かななにもわからない子供が、幼いために、因果の道理に全く気づかない様子をいうのです。彼らには、道徳も宗教もないのです。ただ本能のままに毎日を過しているだけなのです。

人々はそれぞれの因縁によって生まれてきていますから、それぞれ千差万別です。これを異生と呼びます。そして、愚かで無智であることは恰度あの羝羊と同様ですから、喩えて羝羊といったのです。

 

善悪のけじめもわからない、原因結果の道理にも気がつかない、そういう心の状態だ、とあります。

このレベルの人には、道徳も宗教もないのである、とも述べています。ただ、本能のままに日々を過ごしているだけ。そういう凡夫の境涯だ、ということですね。

こういう状態にとどまっている人は、それこそごまんといるのではないか、と思いますけれど。

 

異生羝羊心の「異生」とは、人それぞれ、人みな千差万別、という意味で、

「羝羊」というのは、愚かで無知な小羊のようなもの、という意味で、このような名が名付けられているらしい。

この名づけ方からしたら、人それぞれなので、みな好きに生きたらいいのだ、などという主張は、それこそ愚かな者は愚かなままに、無知な者は無智なままに、人それぞれ自分の思うがままに生きればいい、それ以上のものではない、という主張が、いかに悟りとは程遠い人間観であるかがわかろうというもの。

異生羝羊心をそのまま肯定しているだけの人生観の主張は、当人がまさに、そういうレベルでしか生きていないことの証左ではないか、とわたしは思ってしまいます。

 

この段階についての、空海による解説は、厳しい言葉でズバズバと問題点を指摘されていて、曖昧さを許さないところがありますね。

 

凡夫は狂い酔っていて、自分の非をさとりません。ただ性欲と食欲だけを思っているところは、恰度あの牡羊と同じです。

 

 

羊に譬えたら、ちょっと羊が可哀相に思えてしまうくらいですが、性欲と食欲だけを思っている、そういう凡夫は、自分の非を悟らない、と述べられています。

 

毎日毎晩、生活のために辛い仕事に縛りつけられ、営営と牢獄のような時を送り、ただ名誉と利益を追い求めて、遠くへ近くへと走り廻り、結極はおとし穴に墜ちて苦悩しているのです。

 

 

生活のために、辛い仕事を毎日毎日やって、くたびれてしまう毎日。牢獄に閉じ込められているかのような厳しい生活を繰り返すばかり。

自身の名誉と利益を求めて頑張って、あっちへ行ったりこっちへ行ったりと奔走して努力しても、行きつく先は、苦悩という名の落とし穴だったりする。そういう境涯。

 

これを完全に脱出できていると、どれだけの人が自信をもって言えるでしょうか?

心において、そういう迷いの境涯からは超越できていて、日々淡々と、恬淡とした気持ちで生きられていますと、わたしたちは自信をもって答えられるだろうか?

 

男性と女性は、磁石が鉄を吸いよせるようにくっつき合っていますし、親と子は月下の水晶玉が水を招きよせるといわれるように親しみ合ってくらしています。

それもただ本能的に親しみ合い愛し合っているだけですから、親の親たる所以を知りませんし、夫婦の愛の愛たる所以を気づいていないのです。

これらの愛情はただ流れる水のように自然に続いているだけですし、焰のもえ続けるように続いて、いたずらに妄想の縄にしばられて暮し、空しく無明の酒に酔っているだけなのです。

これでは、夫婦とか親子の関係といっても名ばかりで、恰度、楚の襄王が夢で神女に遇い、それを愛して忘れられなくなった夢のはなしと同じことですし、また旅の宿で偶然に泊り合わせた人たちの、はかない間柄と少しも違わないのです。

 

 

男女の結びつきも、本能レベルで互いを求めて一緒になっているだけであったり、親子といっても、なぜ自分が親となったのか、子となったのか、その理由もわからずに、かりそめのあいだの親しい家族関係を築いたとしても、これは夢の世界の話のようなもので、ひとときの旅の道連れの如くにして、旅の宿で偶然泊まり合わせた人との出会いと、少しも変わらないではないか。

 

とまで言っています。

厳しすぎるようにも見えるけれども、これは本当にその通りの部分があると思えますよね。

仏教的なる視点、この世は仮の宿であり、家族といえども元いた霊界の住まいは別のところにある、そうした心の距離のある関係性の中にあって、地上での数十年間いっしょにすごしたとしても、あの世に帰れば、そこまで密なる付き合いにはならない、といいます。

この世において、毎日顔を合わせて、何十年も共に暮らす、ということの方が稀有な状態で、まさに旅籠で出会った、旅の連れ合いみたいなものなのでしょう。

冷めた目で、薄情な気持ちでそう言うわけではなく、この空海の視点は、本当の意味での霊的視点に立った場合の、家族関係の魂の真実を見抜いた言葉ですね。それだけの深い洞察があっての言葉だと思える。

 

空海の手厳しい解説は、さらに続きます。

 

こうして本能のままの世界は動物と同じで、おおかみや獅子・虎が他の動物を自由にかみくらい、くじらや大魚たちが他の魚たちを勝手にのみくらっているのと同じです。インドの神話にある金翅鳥は竜をたべるといいますし、人食鬼と恐れられる羅刹は人間を食べてしまうといわれます。人間と動物たちも互いに喰い合いますし、強者と弱者とでも互いに喰い合っています。

 

このくだりを読むと、弱肉強食の原理は、愛の原理以前というか、動物レベルでの、食うか食われるか、勝つか負けるか、というレベルの本能の段階の戦いの思想ではないか、という気がしてきます。

宇宙人のタイプとして言ったら、これはレプタリアン原理そのものじゃないか? 弱肉強食の世界、それをそのままでよしとする原理、これを主張する立場というのは、ならば思想レベルとしても、それほど高度な思想であるはずがない、という思いもしてきます。

 

この第一段階に留まっている人間の、言葉の使い方、こころの状態について、空海は様々に解説してくれています。

 

ことばについての 四つの 悪業(うそつき、ざれごと、わるぐち、 二枚 じた)は 言いたいほうだいですと、それは 結局 は 自分 を 傷つける 斧 となり、 自分 の 身 にかえってきます。

 

嘘をつくこと、戯言をいうこと、悪口、二枚舌、こういうことを言いたい放題やっている人は、結局は、自分自身を傷つけることになるのだ、自分の身にかえってくるのだ。

自分で、自分を傷つける、そういう斧を振り回しているに等しい、と指摘しています。

 

こころについての三つの過失(むさぼり、いかり、あやまった見方)を気ままにおこなっていますと、結局は自分を毒してしまいます。こうして自からも慚じることをせず、他人に愧じることも知らないで、あらゆる罪業をおこなっており、しかも自分でおこなうだけでなしに他人にも悪事を教え、ありとあらゆる罪過を犯しているのです。

 

 

貪・瞋・癡の三つの過失、心の三毒が出てきました。さすが空海上人、なんでも知っています。

これ、今から1000年以上も前の著作ですからね。

いったい空海さんは、どんな経典を読み、どんな禅定体験をして、霊指導を受けていたのでしょうか。

仏典も、漢字だけの漢文仏典しか読む機会がなかったはずなのに、漢文をスラスラ読めた空海は、その漢文を読むだけでも、そこに書かれてる心の解説が、手に取るように理解できてしまったのでしょうか。不思議です。

 

これら一つ一つの悪事は、すべて三悪道(地獄・餓鬼・畜生)に陥ちる苦しみの報いをやがて招くことになり、反対に善いことをすれば、その一つ一つの善行の報いが、常・楽・我・浄という四つの徳に飾られた涅槃の境地に自分を押し上げてくれるのですが、そのことに全く気づいていないのです。

 

 

貪・瞋・癡に自身の心を翻弄され、自分自身の心のコントロールも出来ないばかりか、他人に対して悪事を行なって平然としている。

こういう悪人の境涯に陥ってしまえば、三悪道=地獄・餓鬼・畜生道に堕ちるのは、因果の理法からしても理の当然。必然の結果であろう。

 

その反対に、善きことを行なえば、常・楽・我・浄の境地に至ることが出来て、涅槃の境地へと自らの心を押し上げてくれるというのに、そのことに全く気付かないで生きている。

 

このように、空海はさまざまに、この一番下の心の段階を解説し、後半のくだりで、この段階の人生観や世界観を批判する、と言って、つぎのように述べてゆきます。

 

ある人たちは、こういいます、人は死ねば気に帰るのだから、さらに来世の報いなど受けることはない、と。こうした人生観を仏教では断見と名づけて、これから離れようとします。

 

人間、死んだら終わり、何も残らない。だから、来世だとか、あの世なんて考えたってしょうがない。そんなことには知らんぷりして、いまの人生を生きるしかないのだ。

 

こういうことを言う人は、まさに無明であって、真実の人生観や人間観を知らない。ということを指摘しているわけです。

 

これは断見、死によって全てが断絶して無くなるので、それで終わり、と考える間違いですね。

仏教ではこれは、邪見の一つとして、斬って捨てられる見方にすぎません。

2500年以上も昔に、すでにお釈迦様に否定されている、無明の人生観そのものなわけです。

 

この反対に、死んだあと、そのまま丸ごと同じように続く、という考えも、もう一方の極端であって、これは常見ですね。これも間違いである、と仏教は言っている。

 

仏教の考え方というのは、両極端の考えは間違っている、と捉える中道の視点に立つので、ずっと有るとか、完全に無くなる、消えてしまう、というような考えは、中道的観点からも誤りであることが容易に予想されるんですけどね。

真理は両極端にはなくて、両者を否定しつつ、融合あるいは止揚するところにあることが多い。深遠なる真理は大概これだと、わたしは思います。

 

こうした間違った考え方や宗教は無数に存在します。これらを邪見といいます。

 

以上述べたような人生観や諸宗教のたぐいは、みなことごとく、異生羝羊心といわれるものであります。

 

間違った人生観、人間観、世界観を述べる外道の教えは、邪見にすぎない、と空海さんはハッキリと明言していますね。

こういう未熟な人生観、人生の捉え方をする人は、一番下の心の段階、異生羝羊心の境涯に囚われた状態そのもので、そこから一歩も抜け出せていない、ということになるようです。

 

上にもあるように、いくら人生論や宗教書をたくさん研究した、と自負していようとも、その結果得た結論が間違っていたら、その人は少しも悟っていない、というしかないのでしょう。

 

凡夫は善悪の区別など考えていませんし、因果の理法によって必ずその報いのあることも信じていません。ただ眼の前の利益だけを考えています。現世で犯した罪業によって、あの世で容赦の無い地獄の刑罰の火が待っていることに、どうして気づきましょうか。恥じることなしに十悪業を造り、ただいたずらに神とか霊魂とかアートマンとかが実在していると論じて生活しています。彼らは強い執着心を持ってこの世を愛していますから、煩悩のくさりにつながれたこの世から、どうして脱れ出ることができましょう。

 

 

善悪の区別が出来ていない凡夫。因果の理法によって、応報の原理が働いていることを知らない、信じていない。これもまた凡夫であると。

 

目の前の利益だけを求めて、生きているに過ぎない。

現世で間違った生き方をしてしまったら、死後あの世において、地獄の業火に焼かれるかもしれない、などということに気づきもしない。

 

恥じることなく、十悪行を行じてしまう、とあります。

 

それから、神や霊魂、アートマンは実在している、といくら宗教用語を振りかざして主張しようとも、その人の心が、この世の生活に囚われ、強い執着から離れられず、この世に埋没して生きているのなら、煩悩まみれの状態で生きていることから逃れ出ているとは言えないので、

 

結局、宗教をやっているから救われる、とも言えないわけで、本当の意味で、その中身を知っている。心の教えを自分の問題として受け止めて、自分の心をあらためることなくして、正しい宗教の教えを行じているとは言えない、ということかと思います。

 

それからそれから … 

 

この調子で書いていくと、第一段階の引用と解説だけで、この文字数なので、

いくら書いてもキリがないので、あとはご興味のある方は、実際にこの著書を読んでみるのが一番良いかと思います。

 

ということで、オススメ。