わたしは今では、岡潔博士の大ファンですが、
この方は本当にスゴイです! 仏教者としてスゴイので、本格的な偉人だと言うしかありません。
その岡潔博士の、大学での講義に、こんな発言があります。
人は本来、物質的自然の中に住んでいるのではなくて、魚が水の中に住んでいるように、心の中に住んでいます。
物質の中に住んでいるのではなく、心の中に住んでいるというのが本当だ、と言っているわけです。
これは、当たり前のように見えて、実はとんでもなくスゴイことを言っているのだと、わたしは一読して感じたのですが、
物質世界に肉体を持って生きている自分という存在を見て、その自分は、こうした物質の世界で生きていると、たいていの人は思っている。
しかし、そうじゃないのだ。物質の世界、物質的自然の世界の中で生きているようでありながらも、実はそれは単なる外面、見せかけの仮象世界でしかなくて、今でもわたしたちは、心の世界に生きているんですよ。そのことを間違ってはいけませんよ。
そう、岡潔博士は言っているのだと思うのですね。
物質の中に住んでいるのではなくて、心の中、心の世界に住んでいるのが、わたしたち人間の真実の姿なのだ、ということ。
肉体我が自分なのではなくて、そんなものは仮の姿の見せかけに過ぎないのであって、本質を見たら、今でもわたしたちは心の世界に生きているのだ、ということ。
これは、続きの文章を読んでいくと、さらにわかってくると思いますが、岡潔博士はこう言っています。
ところが、日本は終戦後アメリカから大量に「 唯物主義」と「個人主義」を取り入れたため、澄んでいたはずの心の世界が、次第に濁りはじめてきています。
物質には心がない、と思うのが唯物主義で、この肉体の中だけが自分だ、と思うのが個人主義ですが、唯物主義も、そこから出てくる個人主義も、人には非常に有害なのです。
日本はアメリカとの戦争に敗れて、アメリカに占領されました。
そうして、占領軍によって、強制的に国家を改良されてしまいました。いや、改良という言葉は相応しくありませんね。改悪も同時に行われたのだから、アメリカによる改変であり、そこには善き改革もあったけれども、悪しき改革もあった。日本を弱くするための悪質な改革も行われた、とうのが真相です。
そのアメリカが行った改悪が、唯物主義の導入と、個人主義の礼賛である。と、岡潔博士は指摘しているわけです。
欧米型の唯物論、唯物主義的な考えを、日本にねじ込んできた、ということ。科学的、という名のもとに、戦前の日本における精神主義の否定が、実は行われた、と見ることが出来るかと思います。
そうして、唯物主義的な考えが、戦後の日本に蔓延してゆくことになった、という因果関係ですね。これは、戦前の日本人の在り方と、戦後の日本人の考え方を比べてみると、いかに唯物的な発想に偏って来たかが、顕著に認められることを見れば、明らかかと思います。
そうして、個人主義の礼賛ですね。
これは、日本を弱めるために、家族制度の否定と、愛国心の否定、それを主目的として行ったわけで、その代償の如くにして、個人主義こそが大切だ、と来たわけです。
個人の権利、個人の自由、個人の尊厳こそが大切なのであって、家族のために犠牲になる、だとか、お国のために命を捧げる、なんてことはしてはならないのだ。これは個人の自由と権利、尊厳を冒涜するものであって、前時代的な価値観なのであって、だから葬らねばならないと。
こうして、個人主義が礼賛されるのと反比例して、戦前の家族主義や、愛国心は否定されていったわけです。
アメリカの左翼的な急進的改革に同調している日本人ほど、だから家族主義を否定し、愛国心にNOと言い、そうして、個人の権利だ、人権だ、自由だ何だと、好き勝手なことを主張するわけですが、
家族主義、家族愛を否定し、国家への忠誠心や愛国心を否定した上での、個人主義などは、こんなものは、自分こそが一番大事なのだと言ってるだけの、単なる利己主義の別名に過ぎない、と私などは思います。
家族第一ではない、家族は二の次、三の次である。自分が第一、という個人主義。これは利己主義の推奨でしょう。
愛国心や、国家への忠誠心などは要らない。自分が大事、自分一個が大事という個人主義、これは利己主義と何が違うのだろうか。
自分を大切にすることが個人主義の本質である、などと幾ら言い換えて詭弁を弄したとしても、家族や国家といった、自分以外の存在、自分の外にある他の人たちを含んだ多くの人たちを、自分よりも価値が無い、二の次、三の次の価値しか置かない、後回しである、という主張には、エゴイズムの臭いがプンプンすると言うしかない。
利己主義を、個人主義、などと別名で読んだとて、そのエゴの心は誤魔化せません。
個人主義というものを、正しく捉えるためには、利他を踏まえた個人の価値、責任と義務を果たすべく生きる個人、というように、条件づけの個人という視点を欠くわけには行かないでしょう。
夏目漱石には『私の個人主義』という講演がありますが、漱石は、責任を伴った上での個人主義、ということを述べていますので、ここを見逃してはならない、と私はつくづく思うものです。
話を岡潔博士の講義に戻します。前の文章の後半を再掲しますが、
物質には心が無い、と思うのが唯物主義だ、と岡潔博士は述べています。
これは現在で言えば、唯脳論や利己的遺伝子などと主張している人たちの主張は、まさにこれ、唯物主義、唯物論そのものであることがわかります。
脳がすべて、心は幻想、魂も幻想。脳が存在するあいだだけ、脳内の神経細胞の連携、シナプスの結合が、人間の考えのようなものを生み出している。
だから、脳が死ねば、思考も消える、その人の考えも存在もすべて消える。すべては消える。物しかないのである。脳のみが実在であり、肉体のみが実在なのであり、燃えて無くなってしまえば、何も残らない。幻想として仮に存在していた、心なんてものは雲散霧消して消えてしまう。
心など無い、というのが、唯物主義。
面白いのは、この肉体の中だけが自分だ、と思うのが、個人主義である、と論じている箇所ですね。
これも結局、唯物論的思考から生まれている考えだ、というのは、幸福の科学の信者となり、大川隆法先生のご法話を幾つも拝聴していると、よく理解できるようになる事柄なんですが、
この肉体こそが全てである。この肉体に宿っている自分、何の何某という、この自分が全てであって、と考える個人主義などは、エゴイズムに陥るのが必定、というのは、よくわかることですね。
肉体人間としての自分しか考えていない人間は、この肉体が病気になったり死亡して命を終えてしまったら、この自分は無くなる、消えてしまう、と思っている。
だから唯物主義的に考えて、この肉体我に執われている人間は、自己中となり、エゴイストになり、他の人のことなど知ったことじゃない、と考えるようになる。
そういう意味での個人主義、肉体の中の自分が自分だ、と思っている唯物主義的な自己理解をしている人は、エゴイストとなり、自己中人間とならざるを得ないですね。必然の結果です。
こういう意味での個人主義は、非常に有害なんだと、そう岡潔博士は言っているわけです。
物質しか見ていない唯物主義も、肉体の自分しかわかっていない個人主義も、いずれも有害なので、これは破すべき邪見であると、そう述べているわけです。
こういう邪見に陥らないためには、では、どうすればいいのか、といったら、
岡潔博士は、次のような態度を取ることが必要である、と述べています。
それに対してどういうアドバイスがあるかといえば、まず「人は本当は何もわかっていない」ということを自覚するところからはじめなければなりません。私たちはたしかに、いろいろなことを知っていますが、根底まで尋ねて行くと、みな途中でわからなくなって、はっきりしているものなど一つもないのです。そうであるのに、わかっていると思っている。
自分は、何かがわかっている、という思い上がりを捨てなさい。
と述べているわけです。
わかっている、という思い上がりが、人の目を曇らせているのだ、ということ。
けれども実際は、
人は本当は何もわかってやしないのだ。
そのことを自覚するところから始めないといけない。そう、岡潔博士は言っています。
「無知の知」ですね。知っているなどと思いあがるな。謙虚になれ。まだ何も知ってなどいないんだぞ。そのことを自覚せよ。
そう指摘しているわけですね。
知ったつもりでいることだって、よくよく根本を追求してみたら、実はよくわかっていない、はっきりと確認できていることなど何一つありませんよ。
なのに、わかったつもりになっている人が、道を誤るのだ、ということですね。
自惚れた人間ほど、何かをわかったつもりになって、神や仏などいない、あの世など無い、幽霊など存在しない、宇宙人などいるわけがない、と言って嘯いているわけですが、お前が何を知っているというのか、何も知らない分際で思い上がるな、ということですね。
このあたりは、旧約聖書の『ヨブ記』の、ヨブに対して降りた神の言葉を思えば、その意味が幾らか感じられることでしょうし、
わたしがしばしば記事で取り上げているように、人が知っていることなど実はほとんど無いのである、実は知っているのではなくて信じているに過ぎないのであって、人は、信の世界に生きているのだって、知の世界などはそのうちのごく一部にしか過ぎないのだよ。
という指摘とも一致するのではないかと思います。
本当はわかっていない「自分」や「自然」について、勝手に「こうだ」と決めて、わかっていると思い込む中から個人主義や唯物主義も出てきました。それが、生きていることに対する不平不満をずいぶん生んでいるようなのです。そういう誤った思い込みを消してしまったら、よほどよくなるのではないか。私はそう思っているのです。
本当は何もわかっていないのに、わかったつもりになっている。
自分はこういう人間なのだ、とわかったつもりでいる。
自分のことは自分が一番よく知っている、などとよく言われますけれど、本当にそうですかね?
わたしのことは、わたし自身より、神さまの方が余程詳しく知っているだろうと思わざるを得ませんし、守護霊や指導霊の方が、わたしのことをわたし以上に深く、魂の奥底を見た上での理解をしているのではなかろうか、と私は思いますしね。
あるいは自然界、この世界についても、科学的な研究をさまざまにしてきて、現代の学者たちは多くのことを知っている「つもり」でいる。
『ヨブ記』の神の言葉を使わせてもらえば、天地創造の現場にいたわけでもないお前たち人間に、いったい何がわかっていると言うのか、わかったと言うのか?
その神よりの質問に、人間は答えられるでしょうか?
ヨブは答え得ない、という自覚から、謙虚さを取り戻して、神への信仰と、他者への愛の気持ちをふたたび取り戻しました。
人間心の自惚れ、傲慢、知的傲慢。
そこから生まれた個人主義、唯物主義。
そうした誤謬の中にあるからこそ、さまざまな不満が生まれている。エゴゆえの苦悩、不平不満、こういうものが生まれている。
根本が間違っているんですよね。
肉体我ではなく、私たちはそもそも、心の世界に生きている。いまでも、心の世界、魂の世界に生きている、というのが本当のところなのであって、
それは、神仏への信仰の大切さと、愛の大切さを教える、偉大なる宗教こそが、もっともよく教えてくれる真理なんですよね。
心をこそ大切に、ただの利己主義の別名に過ぎないような個人主義になど毒されないように、利他に生きること、愛国心を持つこと、家族愛を大切に、家族主義を大切にしよう。
そうしてまた、肉体という外見に騙されないように、この肉体は大切なものだけれど、その大切さは、魂の乗り物としての大切さなのであって、これが全てなのではない。
肉体と肉体という目線でしか見なければ、自分と他人はまったく繋がりの無い別の存在、赤の他人となり、知ったことじゃない、となってしまう。
しかして、心と心の関係という目線で見れば、心と心は互いに交流していて、肉体は離れていても、心はつながって離れていない、というのが真相なのだ。
こういう視点を持つことで、愛の大切さ、利他の心の大切さ、への理解もより深くなってゆくのだし、だからこそ宗教における学びほど重要な学びは、この宇宙には無いんですよね。
心の真実を教えてくれるのは、神の言葉を教えられる救い主の教えであり、その教えと救い主を守っているところの、宗教的なる組織なのですから。
三宝帰依の大切さ。三宝の尊さ、これを敬うことの大切さは、世界の実態からして導き出される、永遠の真実なのだと、わたしは思う。