内村鑑三の天国論 ~『宗教座談』から学ぶ その2~ | LEO幸福人生のすすめ

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これがまた、かなり厳しい天国論、天国に入るための条件が述べられています。

 

天国に入り得るの資格は何であるか、どういう人が天国に入り得るか、天国とはいかなる人に依て組織せられたる社会であるか、これらの事を知るのは別に 難い事ではないと思います。

 

この問いに対して、天国に入れない人を4タイプ、まずは掲げています。

 

1、富や位階勲章を持っていることは、天国に入る資格にはなりません。

2、学者の集合所になっているわけでもありません。

3、世に称する道徳家が住まう処でもありません。

4、宗教家の住処ではありません。

5、慈善家が住めるかと言えば、そうとは限りません。

 

このようにして、冨や位階勲章、あるいは学問があること、道徳を唱える者、さらには宗教家、慈善家、だからといって、天国に入れるわけではない、と厳しくも指摘しています。

無論これは全否定ではなくて、このような肩書を持っていても、その中身空しい者、金を持っていてその上に胡坐をかいている人間だとか、学問があると言っても、その心高慢であったり、世に阿る無節操な人間であったり、学を鼻にかける者、こういう者は、天国に入れるわけがないと。

学は手段であって、学殖があるのは心正しければ有益だけれども、心卑しければ学識は無価値となる、ということを言っているのだと思います。

 

道徳家がダメと言っているのも、言葉だけで綺麗ごとの道徳を述べているばかりで、その心、融通が利かず頑なであり、そういう道徳一辺倒で心を縛るようなタイプであっては、自由なる天国の気風には合わないのである、と鋭くも指摘しているわけです。

 

それからまた、宗教家であっても、天国の住人になれるわけではない、という指摘は非常に厳しい、下手をすれば誤解を招きかねない言葉ですが、これとても、詳しい説明を聞けば、納得です。

神学校を出たからといって、その後では俗世での立身出世に走っている者がいる。こういう人間を見ると、宗教を専門として学んでいると称する者、当人もそう思っている者だからといって、その心、真に宗教心を体現しておらず。

神学校というところを、宗教系の大学、あるいは宗教組織に置き換えたとしても、単にそこに所属して、そこの教えを学んでいるつもりでいるからといっても、本当の意味での宗教心を身に着けていなければ、それは真の宗教者であるとは言えない、ということでしょう。

肩書だけの宗教家、表向きだけの宗教家、宗教を名乗ってはいるものの、その中身、真実の宗教には程遠いエセ宗教に過ぎないもの。

そういう教えを奉じているからといって、天国に行けるとは限らない、といえば、まさにその通りだというのが、よくわかります。

 

慈善家だからといって、天国に入れるという保証はない、とも述べられている。

慈善を為す者、かならずしも、本当の慈悲の心を体現しているとは限らない。

広告的慈善というものがある、と述べています。政略的慈善というのもある、と述べています。厳しいけれども、これは真実ですね。

自己宣伝のためにパフォーマンス的な見せかけの慈善を行なう者。外見は慈善行為に見せかけているけれども、その目的は単に、自分自身のアッピールのため、となったら、これは慈善ではなく、利己的行為に過ぎない、ということですから。

それから政治家が行なう、国民のための政治、国民に対しての善き行為的なるものも、これを政略的に行っているだけだとしたら? 自分自身や所属政党の評価をあげるためのパフォーマンス、人気取りのための施策に過ぎないのだとしたら、いくら大掛かりに大事業を行なったとしても、その本性は利己的目的のためのバラマキ行為に過ぎなくなる。

 

こうして、手厳しく、一見、天国に入れる条件のように思えるものを悉くバッサリと切り捨てたあとで、

 

では、どういう人間であれば天国に入れるのか、をあらためて内村さんは答えてゆくわけです。

 

 

しからば天国は 何人 の入るべき処でありますか、  

ある人がこの事を使徒パウロに 来って聞きました『 我儕 救われんために何を 為すべきか』と、その時パウロは何と答えましたか、彼は慈善家になれとは申しません、または青年会の事務に熟練してその幹事と為って奔走せよとも申しませなんだ、パウロはかく答えました『 主イエスキリストを信ぜよ、 さらば爾及び爾の家族も救わるべし』と、すなわち救われて天国に入るにはただこの一途あるのみであって他の途は皆な 虚偽 のものでございます。

 

 

主イエス・キリストを信ぜよ。

さすれば、あなたも、あなたの家族も救われるであろう。

ただ、信仰あるのみ!

 

では、キリストを信じるとは、どのような心を持った状態の人を言うのであるか。

 

 

キリストを信ずる者とは今日世に称するキリスト教会なるものに入って、牧師より洗礼を受けてその会員となり、その後はよく日曜日ごとに教会に出席し、よく牧師や宣教師の命令に従い、日曜日には一切仕事を 廃 め、子供は宣教師学校へ 遣って宗教的教育を受けさせ、何事にも従順で不平を唱えず、貴顕紳士の 庇保 を仰ぎ、激憤を避け、なるべく世と推移してこれに反抗しないように努めさえすれば、それで教会の善男善女と称えられる者ではありません、彼らの名はキリスト信徒でありますが実は信者でも何でもありません。

 

 

教会に所属して、洗礼を受けて、会員となっている。

教会に出席して、牧師の話をきちんと聴いている。

従順で不平を言わず、怒りを避けて、世にうまく対応して、うんぬん … 

 

と並べてゆきながらも、

 

そんなことで、キリスト信徒であるとは言えないのである。

 

ここでもまた、厳しい否定がまず入ってきています。

甘やかしや、自分に都合のいい安易な解釈を、内村鑑三という人は許さないんですよね。

非常に厳しい、自分にも他人にも厳しい、キリストを信じると言っても、その心いかなる心境か!を問うてくる。

本物の信仰心をこころに宿していなければ、信者を名乗る資格無し! と来るので、

そのあまりの厳しさに、弟子たちも辟易して、離れて行ってしまう、ということがしばしば起きたのかと思いますけれど。

 

キリストを信ずる者とは前回にも申しました通り、信仰を以てキリストに現われたる神の生命を我がものと為した者でございます、 少くともその精神や行為がよくキリストの行為精神に似た者であります。

 

キリストに現れた主なる神の生命を、自分の心のなかに宿した人間、これがキリストを信じる者なのである。そう、述べています。

少なくとも!

 

その人の行動が、精神が、キリストの行為と精神に似ている者でなければならない。そうでなければ、キリストを信じる者とは言えない。キリストに倣っている者とは言えない。キリストに学ぼうという意欲を持って生きている人間とは言えない。

 

さらに、内村鑑三は言います。

 

一言以てこれをいいますれば天国の市民は 赦されし罪人 であります。

 

自己の罪を悔い、これを神の前に白状し、 終に神の救済に 与 かって新らしき人と為った者でありまして、キリスト教の伝うる天国の市民とは実にかくの如き者を指して申すのでございます。

 

 

天国の市民とは、赦されし罪人であると。

これは、キリスト教に特徴的な考え方だと感じますが、罪への自覚、そしてその罪を背負って、これを悔いて、心を改めんとの決意をしたる者。そうして、罪を償うが如くの心でもって、謙虚な心となって、みずからの心を新生させて生きんとする者。

 

こうした自己の内面の自覚、悔い改める改心を実体験して、その後の新生した心でもって生きることこそが、キリスト者の条件であるのだ、と。

 

彼が謙虚 の人であるは勿論の事でございます。

 

 

彼が感謝の人であるは申すまでもありません。

 

 

そうした心からの改心を為した者は、謙虚の人であるのは当たり前、感謝の人であるのも当然のこと。

謙虚であり、感謝の気持ちを持っていること。これは、真実の改心を為した者には、かならずや備わっている、心の属性ですね。

言い換えれば、謙虚さがなく自惚れている、感謝の気持ちもなく当たり前だと踏ん反り返っている者、こういう者は、まだキリストの前での改心など決してしてやいないのである、ということかとも思えます。

 

神の前で、みずからの罪を告白する、自分の罪深さ、未熟を、涙を流しながら悔いたことがあるのならば、その心は、深い後悔の涙と共に、それまでの傲慢と言う名の汚濁を流し去り、清新な心へと変わっているはずでしょう。それが、謙虚なる心、感謝の気持ちを取り戻すことに、つながってゆくんですよね。

 

キリスト信徒とはこういう者でございます、その柔和たる事小羊の如く、その 猛 き事 獅子 の如く、その天真なる事小児の如く、謙虚 にしてまた 剛毅、涙脆くしてまた勇敢、情に 篤くしてまたこれに勝つの力を有し、使徒パウロの申しました『 総ての事、これ信じ、総ての事これ忍ぶ 』者であります、そうして天国とは実にこういう者の行く処をいうのでございます。

 

小羊のように柔和でありながらも、獅子の如く猛々しい心も持っている。

このように相反するような心を両立させている人こそは、真に深い宗教的境地に達している者の特徴である、ということを、スイスの聖人カール・ヒルティも指摘していたと思います。

 

子供のように天真爛漫でありながら、謙虚でありながらも剛毅なる心も持っている。弱弱しい善人ではなく、戦うべき時には戦うことも出来る強さも持っている、ということかと思います。

涙脆くして、しかして勇敢な精神も持っている。涙もろいことは、弱いことではない。頑張って生きながらも、苦しい境涯から抜け出せない境遇の同胞たちを見て、涙を流す。その深い同情心があるのだ、ということ。そうして、深い悲しみの中にともに沈んでいるようでありながらも、立ち上がって立ち向かうべき時には戦い気概も持っている。勇敢なる者である、ということ。西郷隆盛などをイメージすると、その心がわずかなりとも想像できるのではないかと思います。

情に篤い。しかして、その情に流されずに、人生を生き切る強さがある、ということ。こういう心もまた大切。これを体現するには、深い宗教的・霊的なる自覚と、透徹した人生観・世界観を身に着けることが必須かと思います。そこまでの深さを持っていなければ、このような二律背反するような心の両側面を、同時に兼ね備えることは能わず。

イエス様は、世界中の人たちの苦しみ、悲しみ、辛さを知っているのだと聞いたこともあります。それを知っていてなお、汝の隣人を愛せ、憎しみを捨て愛を取れ、それによって人々は救われてゆくであろう、ということを述べ伝えて、そのために自分の肉体生命を奪われても、人類に愛を説かれたのだと思います。

 

キリストを信じる、ということ。キリストに現れたる、主なる神の愛を信ぜよ。

 

それが、内村鑑三さんの述べる信仰であり、天国に入るための条件、ということなのだと思います。

 

 

 

 

 

深く学び、範としたい戒めの数々だと思います。