今は昔 …
天竺編に出ているお話。
お釈迦様がバラモンの都に入って托鉢に出かけた際、その都に住む外道たちが、お釈迦様を悪しざまに批判し、これに供養する奴はタダじゃおかない、と触れ回ったそうだ。
この脅しに恐れて、家々の者はみな門を閉ざして、お釈迦様への供養をせずに、あるいは立ち寄ることも断って追い払ったのだという。
お釈迦様は供養を受けられずに、空になった鉢を胸に抱いて帰ろうとなされた、とのこと。
ところが、とある家の女性が、お釈迦様のその姿を見かける。
ちょうど、米のとぎ汁を捨てようと外に出てきたところ、何日も家に置いておいて腐ってしまったものを捨てようとしていたところだったという。
女性は、何も供えてもらえていない沙門をお見受けして、気の毒だと思い、なにかを差し上げたいと思うが、貧しくて何も供養できるものがない、と目に涙を浮かべている。
お釈迦様は、そなたは何を嘆いているのだ、とお尋ねになると、女性は自身の貧しい事情を説明する。
しかしお釈迦様は、その米のとぎ汁をわたしに供養してもらえまいか、と言うんですよね。
女性は、これは腐っているものです、と返事をするのだけれども、お釈迦様はそれでも構わないといって受け取るんですね。
そして女性にこう言います。
「そなたはこの功徳により、来世天上界に生まれたら天上の王となるだろう。人間世界に生まれたら、国王となるであろう」と述べ、あなたは限りない功徳を積んだのだよ、と女性に伝えるんですね。
面白いのは、さらにこの続きで、このお釈迦様の言葉を聞いていた外道が、お釈迦様にいちゃもんをつけるんですよ。
「やい、腐った汁をあげただけの女が、天上界に生まれるだの、国王になるだの、おまえは何でそんなデタラメをいいやがるんだ!」 とケチをつけるわけです。
お釈迦様はこれに対して、実に見事なたとえ話をして、その答えとします。
そなたは高堅樹の実を見たことがあるか?
外道が、ある、と答えると、どのくらいの大きさか、とお釈迦様が質問をすると、芥子よりも小さいよ、と外道が答えます。
では訊こう、高堅樹の木はどれほどの高さか?
外道は、途方もない高さだ、と答えます。
お釈迦様は、芥子よりも小さい種から生えた樹が、そのような大木になることをそなたは知っている。
そのように、
仏にわずかな物を供養しても、その功徳ははかり知れないものがあるのだ。
現世ですらそうしたことがあるのであって、来世の功徳はこのことからも推して知るべきであろう。
外道は反省したという。
そんなエピソードも、この『今昔物語集』の天竺編には載っていました。
… 天竺といえば、
インドのことを天竺という、という知識を得たのは、夏目雅子が三蔵法師を演じていた「西遊記」で知ったのだったかなー、と自分では思い返しますが、
いまでは天竺といっても何のこっちゃ、と思う人も多いのではないかなー、とふと思うのでした。