仏教を学べる有難さ その1 by 渡辺照宏『仏教(岩波新書)』 | LEO幸福人生のすすめ

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大型書店に行けば、仏教コーナーがあって、漢訳大蔵経がズラッと並んでいるジュンク堂レベルの本屋も稀には存在するけれども、ここにいきなり手を出す一般人はまずいないだろうと思われ、

 

とりあえずのガイドブックなり入門書を読んでみようと思って、興味を持つ人があったとしても、仏教の真髄は奥深いのに対して、巷の解説書にはトンチンカンな内容のものが実に多いので、仏教のスゴさ、有難さを知るに相応しい本がどれだけあるか、怪しいかぎりだと思われる。

 

サンスクリットやパーリ文献からの翻訳も存在するし、漢訳仏典からの日本語訳も存在する。上座部の経典に大乗仏典からの翻訳。それから後代の弟子筋の論書多数。こうした翻訳本に直接あたった方が、歴史的な流れを踏まえての学びが出来るかもしれないが、そうした著書に関しても仏教概念の理解は甚だ難しいものが多いので、学ぶこと自体が容易ではない。

 

 

そうした中で、渡辺照宏さん(1907-1977)による仏教解説は、幸福の科学の信者にとっても納得の、非常に崇高なる内容を多数含んだ名解説が多い。

ということで、上記の著書を過去にも紹介したけれども、あらためてまた引用しつつ紹介したいと思うのである。

 

前書き

 

本書に引用した聖典はすべて第一資料から直接翻訳した。サンスクリット語またはパーリ語原典の存在するものはそれにより、原典が散佚して現存しないものについては、漢訳およびチベット語訳の両方を読んでから訳した。また、インドに根拠のない文献は原則として引用しなかった。  本書の初版は一九五六年に刊行された … 

 

1956年という年がどういう意義のある年であるかは、幸福の科学の信者はみな等しく知っているところ。この年に発刊された、その名も『仏教』という本。仏教そのものを渡辺さんなりに全体像を見つつ解説してくれた名著です。

 

解説の流れ上、書籍の頭から順番にではなく、順不同で私レオなりの引用と解説をしてゆきたいと思います。仏教のスゴさ、素晴らしさを、現代に生きる私たちにも感じ取れるような、そうした点からの抽出をトップに置いて始めてみたいと思うのですが、

 

 

仏陀〟は固有名詞ではない。budh-〝めざめる〟という動詞の過去分詞で〝めざめた人〟という意味であり、当時のインドにおいて〝(宗教的にみて)完全な境地に到達した人〟をさすことになっていた。そのような人物がこの世に出現することはまれではあるが、いつかは必ず出現するものと人びとは信じていた。だから北インドの王族出身の修行者ゴータマが「自分は仏陀である」と宣言した時に、人びとにはそれがどういう意味であるか判っていたのである。

 

 

イスラエルではメッシア(救世主)の出現を人びとが期待していた。そしてイエスこそはまさしくそのメッシア(キリスト)であるという信仰からキリスト教が生まれた。

 

 

お釈迦様が生まれた当時、インドの人々は、仏陀=覚者の降臨を期待していた、という。それゆえ、お釈迦様が、わたしが仏陀である、と宣言した時、そのことの意義を理解した人は多かった、ともいう。

これはイスラエルにおいて、救世主の降臨を期待していた時に、イエス様が出て、イエス=キリストであるという理解に至ったのと軌を一にしている。

 

脱線しますが、霊的能力を持ったルドルフ・シュタイナーは、イエス・キリストの降臨とその後のイエス様の言動の中に、仏陀意識の影響を見ることが出来る、と述べて、当時の霊的背景を洞察しています。

 

 

仏陀が示した理想に従って実践するという行き方の他に、仏陀を信仰するという意味の仏教も仏陀の在世中から、とくに在家信者のあいだで行なわれていた。仏陀自身が実践し、出家修行者に課された道は厳しく、誰にでもできるというわけではない。しかし仏陀の慈愛は無限であるから、信仰によって救われる道もあるはずである。仏教とは仏陀を信仰する宗教である、と定義することもできる。このように、信仰の面を強調する仏教はどの時代にも行なわれてきた。家族を抱え、職業を持つ一般人にとっては厳しい修行に専心することは困難であるが、信仰をもって修行に代える道も最初から仏陀自身によって認められていた。

 

 

仏陀在世時の教えの中心は出家者向けの教えが本義であって、という誤解があるけれども、実はそうではない、という説明をしてくれています。

 

出家者は厳しく自らを律し、数百に及ぶ戒律を守る必要があり、実践すべき課題も在家以上に厳しいものが多かったには違いない。けれども、だからといって、そうした出家者向けの教え「のみを」仏陀は教えたわけではなかった。

出家者以上に遥かに人数の多い庶民、在家の人たちに対しては、在家の人たちに相応しい課題を与え、在家信者はこれを守り、さらには仏陀を信仰するというスタイルでの帰依者も数多くいた、とのこと。

自力修行をするのが中心に思われている出家修行者たちのみならず、信仰型の仏教に依った在家信者たちの仏教帰依のスタイルも、仏陀在世時からすでに在った、とのことですね。これを仏陀ご自身が認めていた、と解説してくれています。

はるか、後代に生まれる浄土系の他力信仰型の仏教スタイルは、この流れの延長上にあると考えれば、これもまた仏教の一形態と言われて確かにうなずけるものです。

出家信者であっても、当然、仏陀に深く帰依するという意味では、キリスト教における神信仰と同じような、謙虚さと敬虔さを伴った敬い従う心を持つことの大切さは、当然教わり堅持していたことでしょう。これがやはり基本の共通スタイルとして有ったに違いないと思います。そのことは以下の解説を読んでいっても痛感されます。

 

また、仏陀への信仰なくしてはいかなる修行もあり得ない。したがって仏陀への帰命〔南無〕を表明し、仏陀と法(ダルマ)と教団(サンガ)への帰依を唱えることは出家修行者にとっても、在家信者にとっても義務となっている。仏教を考えるとき、いずれにしても信仰を無視することはできない。

 

渡辺さんは「信仰」という言葉を使って解説してくれていますが、仏陀への信仰無くして、いかなる修行も有り得ない、とあります。これは出家在家問わず、仏陀を敬い信じる気持ち無くして、その教えを素直に正しく学ぶことは出来ない、ということでしょうし、この因果関係は当然そうであって間違いありませんね。

信仰なく、帰依の心なくして、教えのみ聴いていかなる学びが有り得るか、となったら、これは内容によっては聞いてもいいかな、信じてもいいかな、でもこの教えはちょっと納得がいかないな、みたいな、自分中心のご都合主義で教えを取捨選択するような態度。こういう自分勝手主義の学び方では、そもそも仏教を正しく学ぶことなど出来ないし、修行の出発点にも立っていない、ということかと思います。

八正道の教えにしても、正見・正思・正語 … と八つの項目を上げる前に、その大前提として「正信」がなければ、そのあとの八正道は成立しない、という道理も教わっています。仏の目から見た正しさ、によって、見ること、思うこと、語ること … のチェックをするのが八正道であるのに、その仏ご自身への尊崇の念、帰依の心がなくして、どうして仏の見方に照らしての反省などが出来ようか。出来るはずがありません。ということで。

 

だから三宝帰依、仏陀への帰依、法・教えへの帰依、教団・サンガへの帰依の心があるかどうかが、まずは問われる。あなたは仏教を学ぼうと思うのですか? ではその大前提として、上の三つを信じることを誓ってください。その誓いこそが出発点です。というのは、出家だけの話ではなく、一般信者、在家で暮らしている一般の人であっても、この最初の誓いは誓わないといけないんですよね。これがあって初めて、出家修行があり、在家修業があり、仏教の学びとその理解が始まるからです。

 

 

つづく。