言葉にとらわれすぎるのではなく、言葉の奥にある精神が大切、ということ | LEO幸福人生のすすめ

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 ~シルバーバーチ 感想17~
 

シルバーバーチの交霊会に興味を持って、参加させてほしい、と言ってきた牧師さんがいたそうです。

その牧師とシルバーバーチの対話が、とても勉強になります。

牧師さん自身は、立派な心持の人物なんだけれども、地上の教会システムや、定められた教義解釈に執われている部分があって、ところどころでシルバーバーチに指摘を受けています。

言葉の解釈や、字義に執われ過ぎて、肝心の精神を見失っては意味がない。言葉を通して語られている、その精神、心の在り方とはいかなるものであるべきか、ということをしっかりと学ばないといけない、ということかと思います。

そして、その精神理解を体現した実践が重要なのだ、ということ。
 

「言葉はどうでもよろしい。いいですか、大切なのはあなたの行いです。大霊の真理は、バイブルだけでなく他のいろいろな本に示されています。どこであろうと、誰であろうと、大霊のために奉仕しようとする人の心には真理があるのです。それこそが最高のバイブル(神の教え)なのです。」

 

あなた方クリスチャンは、バイブルを読む際に何もかも神学的教義に合わせるような解釈をしますが、それをやめないといけません。霊に照らして解釈しなくてはいけません。霊こそが、宇宙のすべての謎を解くカギなのです。イエスが譬え話を用いたのは、そのためです。



イエス・キリストの言葉を学ぶ際にも、一字一句を過たず暗記することが重要なのではなく、その言葉によって示された、どのように生きるべきかの指針に素直にしたがい、その精神を体現すること、実践すること、そこにこそ意義があるのであって、イエス様が教えたのは、人々が実践すべき生き方の指針であったのだ、ということですね。


 

イエスの関心事は、自分がどんなことを言ったかというようなことではなく、地上のすべての人間が神の御心を実践することです。人間はあまりにも教え(聖書の言葉)に関心を寄せ、行いを 疎かにしています。〝福音書〟なるものの説教の場には、大霊の真理に飢えた人たちが集まっています。そうした人々にとって重要なことは、単なるイエスの言葉ではなく、その教えに基づくあなたの生き方です。あなた自身の生き方を、手本として示すことです。 地上世界は教えでは救われません。いくら長い教えを説いても、それだけでは救われません。



これは、教えや言葉に意味がない、ということでは無論ありませんが、

大切なのは、その教えによって、各人が精神の学びを得ること、教えを聞いて何を学んだか、何をつかんだのか、各人の精神が!ということかと思います。

教えを聞いて、暗記するような覚え方はしているが、その教えにある生き方をまるで実践する気が無い、というのでは、言葉は知っているが、それと自分の生き方は関係がない、と言っているようなものであって、結局は、教えそのものを理解していない、聞いていないのとかわらない、ということになってしまう。

そういう意味で、真に学んだなら、わたしの生き方が変わらないといけない。神の教えに適った生き方を、わたしたちが自ら体現して、お手本となるような生き方を示さないといけない。

地上世界を救う、ユートピア化を促進するということは、各人が学んだ教えを実践することで、神の願われるような生き方をする人間が増える、ということでしか成されない、ということ。

わたしは、聖なる書を手元に置いて、それを読む、学ぶ、というだけでは、まだ目的の途上にすぎないのであって、学んだ結果、みずからの生き方にそれを体現するところまで行かないといけない。
ということかと思います。


シルバーバーチの質問に対して、牧師が、聖書には〇〇と書いてあります、とか、プロテスタントの教義では〇〇ということになっていますが、などといって答えようとすると、シルバーバーチは、

 

「私はあなたの率直な意見をお聞きしているのです。聖書の言葉を引用しないで、率直に答えてください。イエスが何と言ったか、私には分かっています。あなた自身はどう思っているのですか。」


といって、聖書からの引用ではなく、あなた自身の理解、あなたがどのように考えているのかを聴いているのです、と遮っています。

真に学んでいるのなら、自分自身の魂の声として、みずからが学んで理解した、その精神でもって、答えられるはずである。答えないといけない。ということなのでしょう。

引用というのは、権威に頼った思考停止にもなりかねないものであるし、わるい場合、形骸化して硬直化した過てるドグマと化した場合には、その間違った教義を金科玉条のように崇め奉ってしまう、という問題にもつながりますからね。

そうではなくて、大切なのは、そこで述べられている言葉、述べられている教えの、精神的なる意味、その真実をしっかりと掴めているかどうか、理解できているかどうか。
そうした正しい精神的なる理解をもっての、返答ができるか、ということかと思います。

 

あなたに理解していただきたいのは、バイブルの言葉を云々するよりも、もっと大切なことがあるということです。〝主よ、主よ〟と叫ぶ者が 敬虔 なのではなく、神の意思を実践する者こそが敬虔なのです。それをイエスは二千年前に教えています。それなのにあなた方はなぜ、神の意思を実践することがいちばん大切であることを、人々に説けないのでしょうか。大切なのは何を信じるかではなく、何を為すかです。


これもまた、偉大なる師の言葉を引用して語るだけでは、ダメだと言っているわけでは決してなくて、

丸暗記して繰り返したり、言葉をそのまま伝えたりしていても、その言わんとしている教えの意味を、伝えている人間が理解していなかったら意味が無い。
言葉は一字一句まちがいなく複製しているかもしれないが、その内容の意味を理解していないのなら、その人はその教えを体現も出来ていないだろうし、実践も出来ていないのだろうし、その言葉の細かな解説もできないだろうし、ということであって、

だから、表面にあらわされた言葉の部分だけを暗記したり、その言葉の字義解釈にばかりこだわっても意味はない、ということでしょう。
言葉に執われるのではなく、その言葉が指し示している意味、精神的なる意味、魂の学び、生きるための指針としての精神性、そういったところにまで踏み込んで、自身の魂の学びとし得ているかどうか。

そういうポイントを指して、「バイブルの言葉を云々するよりも、もっと大切なことがある」と、シルバーバーチは教えてくれているのだと思います。

信じ、学び、それが真に出来ているのなら、各人の生き方にそれが体現されないといけない。そのための信仰であり、学びであるのだ、ということかと、わたしは思います。

これは、シルバーバーチの霊言に限らず、偉大なる師から学ぶ際の鉄則ではないか、と思うんですけどね。

言葉に執われて、それ以上に踏み込むことが無い学び方だと、これは結局、言葉の丸暗記や、金科玉条のように崇める硬直化につながっていくもので、その言葉に込められた精神の方が失われることになってしまう。

安息日は、人々に休息を与えんとする神の慈悲と愛であったはずなのに、いつしか、安息日を守ることが第一となって、その戒律を文字通りに遵守することが最優先になってしまい、本来の趣旨が見失われていってしまったように。

こうした教えの形骸化、本来の精神が歴史の流れの中で失われていった事例、たくさんあるのだと思います。

言葉自体、言葉のみに執われて、その言葉が示している精神の教え、その真意を見失ってはいけない、ということだと思いますね。