マズローの欲求5段階説、っていうのがありますね。有名なピラミッド型の、心の欲求を5段階に分けて表した図。
以下のような図で説明されるものだけれど、
下へ行くほど、人間が誰しも持つ基本的な欲求で、その欲求が満たされると、一段上の欲求を人は求めるようになる。
みたいな、いわば欲求の発展段階説、とでも言うような。
いちばん下にある生理的欲求は、生きるための基本的な欲求ですね。食べる、寝る、などの肉体生命に伴う欲求。
これが満たされて初めて、生きることの最低条件をクリアできているわけであって、
食べ物も得られない、眠ることも許されない状況にある、という状態では、他の高次の欲求などは望むべくもない。
まずは、食べて寝る、身体を休める、といった、生命維持のための欲求があるのだと。
これは動物でもあるし、もっと低次の生物にもある欲求ですね。
それに次ぐ位置に、安全の欲求、というのがあると、マズローは定義している。
安全な環境の中に自分を置きたい。安心したい。
これは、経済力を確立して、お金の心配の無い、生活への安心感、というのもココに相当する。
あるいは、健康な身体であること、病気ではなく健康体であることによって、ほっとできる。
自分の日々の生活が、お金の心配もそんなに無く、心配しないで済むほどには安定している、とか。
肉体的にも、どこにも異常が無く、病にかかっていない健康体でいられる。心配しないで生きていられる。
そうした、安全である、という欲求が満たされる段階。
この2段目をクリアした上に、3段階目に、家族や何かの集団に所属している、帰属している、という安心感ですね。
いる場所がある、ということ。自分独りで孤立していない。
誰も頼るものが無く、頼ってくれる人もない、隔絶した孤立感の中で生きている状態ではなく、所属している家族がある、会社やサークルその他、何かしらの人の集まりに所属している。
人は社会的動物である、と定義したのはアリストテレスだったかと思いますが、人と人が和している集団に帰属している、ということ。社会的な動物である、グループの一員でありたい、という欲求がココで満たされている。
満たされていない場合は、最初の、生理的欲求は満たされ、安全な欲求も満たされていても、この社会的な欲求が満たされていなければ、やはりその人の心はどこか悲しいというか、満たされている人に比べて、欠乏感があるものでしょう。
他の人と比べて、自分はその幸福が得られていない、という不満足感。これがあるはずですね。
さらには、こうした集団へ帰属している、という満足感があったとしても、そこで周りの人たちから、よく思われているか、それとも、そうではないのか、という、自分自身の存在価値の大小、高低によっても、その満足感は違ってくる。
これが4つ目にある、承認の欲求であって、承認欲求、まわりの人たちから認められたい、承認してもらいたい、自分の存在価値を認められたい、という欲求がある、ということ。
前の3つの欲求が満たされても、この4つ目で、自分の評価が低かったり、軽んじられたりしていれば、それもまた、満たされていない不満足感につながりますからね。
こうして4つの欲求があって、さらに一番上、5番目にあるのが、自己実現の欲求、となっている。
自分の潜在的な可能性に賭けてみたい、チャレンジしてみたい、そうしてその目標を達成したい。
これが達成出来たら、この満足感はとても大きなものとなるだろうし、本人の幸福感は非常なるものがあるでしょう。
自己実現したいと思っても、その通りに実現できないことは多いものだし、挫折や失敗に終わって、そこでジ・エンドとなることも多いですからね。
こうした自己実現の欲求。自己実現衝動。ここに向かって生きたい!という願い、望み、欲求。
こうした5段階に分けて、人の抱える欲求を分析したマズローの説ですが、この5段階説に則って、人の生き方を捉えてみると、確かに、なかなか興味深い洞察が出来るように思います。
いきなり一番上の自己実現欲求を狙って、その下のさまざまな欲求を軽んじた生き方をしてしまうと、もしその自己実現が失敗した場合に、一気にツケが回ってくるかも、という指摘も出来るように思います。
自分の力を過信して、野望にも近いような、ただひたすらの自己実現欲求に生きてしまったら、どうなるか。
人の輪の中に所属しない、家族の中での安定的な立場も確立していない。さらには、周りの人たちからの評価も得ていない、得られていないような状態だとしたら。
社会的欲求のところをすっ飛ばして、上の承認の欲求もさらにすっ飛ばして、自分はただ使命を果たすのだ!といって、自己実現至上主義みたいな生き方をした場合。
それが本物の使命感であればいいのだけれども、そうではなくて、それ以前の、着実な魂の課題というか、前段階として克服すべき課題ですね。これをなおざりにして、独り思いあがっていた場合。
これは、成功者の町をいきなり目指して、その前にあった普通の町で幸福に生きる努力を怠り、それをすっ飛ばして、いきなり最上の満足を狙っている野望でしかないかもしれません。
若くしての野望、というか、野心が強すぎる人は、こうした陥穽に陥る可能性があるのではないか。
みたいな分析にも、使えるかなーと、わたしは思ったりしますね。
こうした失敗に陥った場合には、いちばん上が叶わず夢破れた。ふと振り返ってみると、その下の、人々からの承認も得られていない自分である。さらには、そうした人の輪の中にすら所属できていない自分である、ということに、初めて気づく、なんてことにもなりかねません。
安全の欲求が満たされていればいいけれども、そこもダメだったら、どうするのか。
いちばん下の、とりあえず、食べることが出来れば、それでいい、ということになってしまうのか。
これは極端な一例ですが、こんな風にこのピラミッドを参考にして思考してみれば、やはり精神の発展というか、目標。この場合は、欲求、ということになっていますが。
やはり段階を追って順繰りに、着実にクリアしながら、さらに高次のものを目指す、というのが、いちばん確実な人生観のように思えてきます。
高次の自己実現は、それは目指すに値するもの。
しかして、そうした理想、目標、自分としての人生の最大目標を目指すと同時に、それ以前の、その前段階のさまざまな欲求段階を、自分はきちんと見ているのかどうか。
これをよくよくチェック確認しながら、生きていくことが大切なんじゃないかなー、と思うのでありました。
この5段階の欲求説は、上の欲求ほど高次の欲求である、という定義になっているので、
逆を言うと、下の方の欲求だけで満足している状態は、未成熟な状態、ということになるそうです。
動物的な生を生きるだけでは、人間としての高次の生を生きている、とは言えないように、
やはり最低限でも3つ目の、社会的な欲求くらいはクリアすべく、その上で、承認欲求を満たせるような自分となること。
これは、他の人たちにとって、存在価値のあるような人間に、自分がなる、成長すべく努力する、ということですからね。
そうした理解からしてみれば、その上の自己実現欲求も、単なる自己満足、自分が嬉しければそれでいい、なんていう自分勝手な欲望の満足が、これに当たるわけはないのであって、
ここで言う自己実現欲求というのは、人々の中にあって、自分という個性を最大限に発揮できているかどうか、ということ。
自分なりの個性の発揮を最大限に成して、多くの人たちの役に立つこと。自分の存在価値が最大限に評価されるような生き方をすること。それはそれだけ多くの人たちに貢献となる生き方をしているか、ということでもありましょう。
ということで、これは、
幸福の科学で言う、魂の発展段階説。愛の発展段階説。あの世における次元構造の中での、魂の進化の階梯とも、これは一致していると思うんですね。