速読・多読と、精読・再読 | LEO幸福人生のすすめ

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幸福の科学一信者のブログです。
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多くの本を読みこなすためには、ある程度の読書スピードが要る。すなわち、速読。

速読しつつ、いろんな方面の本を読むこと。多読。


速く読み、幅広く読む、という読み方をしない限り、たくさんの本をわずかの人生時間で読みこなすことは出来ないと思う。

しかして、なんでもかんでも速く読んでしまったなら、深く理解する、ということが等閑になってしまう。
時間をかけて読むに値する本は、じっくりと時間をかけて精読するにしくはない。


速く幅広く読みながら、良い本を発見すること。
発見した良い本は、じっくりと読み込み、さらには何度も再読することで、深く自分の魂に刻み付けた方がよい。

速読・多読と、精読・再読の関係性は、このようなバランスが良いのではないか、と私は思っている。



何度も書いていることだけれども、わたしは子供時代には、マンガは読んでいたけれど、活字オンリーの本はほとんど読まずに過ごしてしまった。
中学が終わる頃になってようやく、ぽつりぽつりと活字だけの本を読み始めたのだけれど、その数はわずか10冊にも満たなかったような気がする。

高校生になっても、読んでいたのは小説がほとんどで、SFや推理小説といったエンタメ系と、あとは海外の純文学を頑張っていくらか読んだくらいのものだった。

1日1冊読もう!なんて計画を立てたけれども、とでもではないが、そんなに読めるはずがない。
だいたい、1ヶ月に10冊も読めたらいい方で、年間通しても、80数冊くらいしか読めなかった覚えがある。
80数冊といっても、純文学などは、1ページ当たりの文字数がビッシリなので、1ページ読むのにだいたい1分かかる計算で、1時間かかって読めるのは60ページくらいのものだった。
岩波文庫の「ロビンソン・クルーソー」を読んだりしてけれど、あれも字がビッシリで、そんなに次々とページをめくることは出来ない。
ちゃんと理解しながら読もうと思ったら、やはり1冊読むのに、総ページ数と同じくらいの分数がかかったように思うので、300ページの本を読むには、5時間は必要だったのではないか。

学生時代、学校の勉強をしながら、1冊読むのに5時間かかる本をたくさん読もうとしたら、それだけ読書にかける時間を割かねばならないわけで、やはりそんなに大量には読めないはずだと、いまでも思う。

幸福の科学の職員になる人でも、学生時代に読了した本の冊数は、だいたい500、600冊くらいが普通、みたいなことがどこかに書かれていたと思う。そのくらいが上限だと、やはり思う。

これを突破するためには、1冊の本を読むスピードを倍増、3倍増以上にして、ものすごい読書速度で冊数を重ねる以外にないと思うのだが、速く読めばそれだけ、細かなところをすっ飛ばしてしまう可能性が高い。
むろん読解能力、理解する能力の差が人によってかなりあるだろうから、速く読める人はいるだろうけれど、10倍とか100倍の速度で読むのは難しいのではないかなぁ。


ということで、わたし自身は高校時代は年間80数冊を読むのが限界だったけれども、それから徐々に多少はスピードアップして、100数十冊を読むようになって生き続けて、気が付いてみたら数千冊の本を読了していたのだけれども、

振り返ってみると、というか、思い出深い名作などを再び読み返してみると、細かなところは殆ど覚えていないということに、あらためて気づいたわけです。

当時、じっくり読んだものであっても、細かなところは憶えていない。
とするならば、一冊の本をあれだけ時間をかけて熟読、精読してしまった読み方は、あまりにも時間をかけ過ぎた読み方だったのではないか、と今振り返ってみると、反省するところがあるわけです。

そこまでじっくり「すべての本を熟読・精読」する必要はそもそもなかったのではないか。
その本が、良書であるのか、面白い本であるのか、自分にとって結果的に重要な書物となるかどうかもわからない最初の読書で、そこまで時間をかけすぎて読む必要があったのだろうか?という疑問。

本を初めて読むときは、もっと素早く、そんなに時間をかけないで、細かなところはすっ飛ばしてでもいいから、もっと早く読んでしまうべきなのではないか。
それでも、大まかな内容は入ってくるはずだし、そうして速く読み終えてしまって、もしその本が熟読・精読に値する本だと思えたのなら、あらためてもう一度はじめから、ゆっくり熟読しなおせばいい。
そこまで熟読しないで、概要のみ知っておればOKという本だと思ったのなら、2倍の速度で速読してしまったことは、時間の短縮という意味で、正解だったのではないだろうか。
そうして節約できた時間を使って、別の本をもう一冊、これまた速読で読んでしまえば、同じ時間を使って2冊の本を読むことが出来るのではあるまいか。

速く読むことで、同じ時間内に、2冊の本を読んでしまう。
2冊の本とも熟読してしまったら、時間は倍かかってしまうだろう。それでは勿体ない。
最初の読書では、どの本も、倍速で速読してしまおう!

そうして大量の本を読みこなしてゆこう。

情報処理的な本の大量摂取のためには、こうした読み方も必要だと思わざるを得ないし、そもそも、じっくり精読・熟読しても、そんな細部にわたるまでの情報は、結局あたまに残らないのだ。
あたまに残すためには、一度読むだけでは足らず、じっくり熟読だけでも足りず、むしろもう一度再読しなおして、その際にこそ、じっくり深く理解しつつ読めばいいのではあるまいか。

ということで、

最近の自分は、こうした読み方をするようになってきた、というか、しているんですけどね。

そうでもしないと、とてもではないが、読みたいと思っている本、読むべきだと思っている本たちを、読みこなすことが不可能!なので、どうしてもそうした読み方を採らざるを得ないなぁー、と思うのでありました。

結局、数千冊の本を読んだ、とはいっても、心の肥しになるような、本当に自分が生きる上での指針、柱となるような名著というのは、そんな何十冊も何百冊もにはならないのであって、核になる書物、心の書というのは限られると思うんですよね。

わたしは幸福の科学の信者なので、幸福の科学出版の理論書や重要な霊言は何度も読み返してますが、すべての本を再読・再再読はしていないですし。
他の古典名著などでも、本当に自分の心に響いた本というのは、年を置いてしばらく経つと、また読みたくなって自然と再読しますしね。
すると、最初の読了時の感動がふたたび蘇り、あらためてその名著に感じ入り、大いなる学びを得ることもありますし。
一方では、あまり心に響かなかった本を、無理して何度も読み返してみても、ピーンと来ないものはしょうがない。
自分の魂が本当に求めているもの、目指しているもの、指針となりうる名著をこそ、何度も何度も読み返せばそれでいいのではないか、とも思うのでありました。

こういう本って、わたしの場合は思想書が多いけれども、宗教、哲学、神秘思想、その他。好みのタイプの偉人の書はやはり好きだし、ブログ記事でよく取り上げている本などが、これに相当しますけど。
歴史小説だとか、SF小説とかでも、本当に好きな本は、どうしたってまた再読したくなる時が来たりして、こういう本との出会いこそが、本当は大切なんだろうな、と思うわけです。

自分にとって大切な本を10冊あげなさい、と言われたら、どんなタイトルをあげるでしょうか。
100冊あげろと言われたら、それなりに選び出せるかもしれませんね。
本当に大事な本を1000冊あげなさい、と言われたら?

そんなに1000冊もが全て、自分の心の核になった、ということはないんじゃないかなー。
その1000冊の内、本当に心に深く響いた思い出の本と、最後になんとかあげた1000冊目の本では、思い入れの深さが違うのではないだろうか。
なので、せめて100冊、できたら10冊にしぼって、自分にとっての心の名著10冊をあげてみたら、自分がいったいどのような生き方を望んでいるのかが、見えてくるのではないでしょうか。