【再掲】カルマを深く理解して、それを正しく読み解く難しさ、について | LEO幸福人生のすすめ

LEO幸福人生のすすめ

幸福の科学一信者のブログです。
幸福の科学での学びを中心として、
読んだ本や、観た映画の感想などを書いています。
面白くて~わかりやすく、ためにもなるブログを目指しています!

カルマの思想というのは、人間の秘密を知るには極めて重要かつ、根本的なシステムだと思うのですが、
これは軽々しく扱うには、きわめて繊細な秘密をも含んでいるので、人々の目からは基本的には隠されていたというか、そう簡単には開示されないのが普通だったのではないか。
そんな気もしてきます。

自分の過去世、前世が誰しも容易に知ることが出来たのなら、
ああ、自分は前世、こんな悪いことをしたから、その罰として、こうした苦しみに出会っているのだな。じゃあ辛抱して耐えなくてはいけないな、とか。
ああ、自分は前世、そういう職業の人生を生きたから、いまこういう能力に恵まれているんだな、ありがたやー、とか。
いま自分の前にいるAさんとは前世も親友だった、Bさんはライバルだった、敵だった、などなど。
なんでもかんでも、前世からのつながりがわかってしまったら、生まれ変わりの意味が半ば失われてしまって、せっかくの転生の機会を十分に生かせないところがあるのだろう、とも考えられます。

姿かたちは違えども、住むところは違えども、その原因となった、前世の自分の行動を全部覚えていたら、喜びも悲しみも、楽しみも苦しさも、ぜんぶ覚えていたら、あるいは簡単に思い出すことが出来てしまったら … 、

それは例えるなら千年、万年の寿命があって、生き続けているだけのことと、大して違わないことにもなりかねません。千年の記憶をもって、この世の人生を生きているのと変わらない。
ただ時々すがたを変えたり、人間関係を変えたり、住む国が変わっているだけで、その前のことをすべて覚えていたら、

イギリスからアメリカに移住して、アメリカ人として生き始めたけれども、イギリスで何をやっていたかを全部覚えている、そうしたことと大差ないでしょう。

けれども、アメリカ人として新生して、本当の意味で第2の人生、生まれ変わりの人生を試してみたいのならば、
イギリス人だった前世はいったん忘れ去って、赤ん坊として最初からアメリカ人として生まれ変わって、アメリカ流のモノの考え方、価値観、生き方を学んで、その中で人生を送った方が、まっさらなところへの新たな学びとしては、いっそう有意義な人生をおくれる。
そうした意味もあって、生まれ変わりにおける、前世の忘却、という神仕組みがあるのかもしれません。

イギリスに生まれ、成人してから、アメリカに移住。そこで第2の人生を送るという、単なるアメリカへの引越し人生の経験と、

イギリス人として生きたけれど、そこで一度寿命を終えて、あの世に帰る。イギリス人としての人生はいったん終わり、終了~。
その上で、ふたたび今度は別の時に、アメリカ人として生まれ変わって、ゼロから第2の人生を体験する、というのでは、

形の上では似ていても、実はまったく質が違ってくる人生経験になる、とも思えます。

前世の経験を忘れているがゆえに、まっさらからのアメリカ人人生が経験できる、生まれ変わりのアメリカ人生と、
ただ単に、イギリス人がアメリカに移住して生きるのとでは、人生の質が根本的に違うというしかないでしょう。
この場合は、イギリスでの人生との比較をどうしてもしてしまうから(覚えているために)、まっさらな人生を生きることにならず、アメリカそのものの学びが十分に出来ないのかもしれません。
つねに、イギリスで生活していた頃は…、イギリスの政治制度と比べたら…、イギリス人の風習と比べたら…、なんていちいち考える習慣のもとでは、本当の意味での第2の人生は難しい。


そういう意味もあって、人はいったん亡くなると、あの世へと帰っていく。
それからしばらくの年月が過ぎると、前世の記憶をすべて失った形で、どこか別の国、別の人間へと生まれ変わっていく。
前世の記憶は忘れているとはいっても、「潜在的には」残っていて、むろんそれまでの努力、経験、蓄積はゼロではなく、それは才能や性格、人間関係の縁、などといった功徳としても現れてくるし、あるいはその反対に、悩みや苦しみも、前世からの課題のやり残しとして、現れてくることがある。

けれども、大まかな意味でも、いったんリセットして忘れている、というのは有り難いことなのだということ。

人は前世を覚えていないから、前世なんかないんだ、ではなくて、

いや、前世を覚えていないのは、それこそ前世と今世のつながりが、実は深い深い意味があってつながっているからこそ、覚えていないような生まれ変わりを、神さまは人間にさせてくれているのだ、という不思議に気づかないといけないのかもしれません。

前世を覚えていないからこそ、実は逆に、前世があるのではないか、という逆説も成り立っているとさえ言えるかもしれません。


イギリスとアメリカの例えを持ちだしたのは、シュタイナーがカルマ論で、こういった比較で生まれ変わりの関係を述べていたのを、以前、読んだことがあるからです。

シュタイナーのカルマ論は、エドガー・ケイシーの具体的なリーディング例よりも、表現が哲学的なので難しいですが、

前世のことを覚えていないといっても、人は前世、自分が何をやっていたかに規定されて、今世の生き方や職業選択その他、さまざまなものを自ら決めてゆく。そうしたことを述べているんですね。
シュタイナー自身の表現を以下に転載すると、次のようになります。



再び肉体を得た霊性は、このようにして物質世界の中で、かつての自分の行為の結果を自分の運命として受け取るのである。
そして、心性はこの霊性と結びつけられており、上述の運命と霊性との関連を仲立ちするのである。
「霊性は以前に住んでいた世界とは全く別の世界へ生まれ変わってくるというのに、どうしてかつての行為の諸結果をそこに見出だすことができるのだろうか」という問いがここで生じるかもしれない。
この問いは、運命の連鎖についての著しく外面的な考え方から生じるものである。

たとえば、もし私がヨーロッパからアメリカに移り住むならば、私は同様に全く別の新しい環境世界に入ることになるのではないであろうか。
それにもかかわらず、私のアメリカにおける生は、それに先行するヨーロッパでの私の生に完全に依存している。
私がヨーロッパで技師になった場合と、銀行員になった場合とでは、アメリカに行ってからの私の生は全く違ったものとなっていくであろう。
先の場合には、私はアメリカでおそらく機械に取り囲まれることになるであろうし、後の場合には多分書類に取りまかれた生活となるであろう。
いずれの場合にも、私の以前の生が私の環境を規定するのであり、言うなれば、自分を取りまく世界から自分に関連のあるものを吸い寄せるのである。



生まれ変わって、まったく違う国、まったく違う人間に生まれ変わったのに、なぜ前世の宿縁の結果を、その次の生でも引き寄せるのだろうか。その不思議な縁起というか、因縁果報、因果応報とも言うべき、原因結果の連鎖が、なぜ引き続き、地上の人生で行われるのか。
場所もすがたも変わっているのに、前世の結果のようなものが、不思議とその人に引き付けられ、現れる理由は?
ということの説明として、シュタイナーは上のような説明をしているんですね。

前の生での経験や、作られた性格が、現世においても、その人特有の趣味や嗜好として現れるので、
機械に興味のある人生をおくった過去があったら、やはり今世もなぜかそちら方面へ魅かれ、そうした仕事選びをするだろう。
あるいは事務仕事に精通した過去人生があったら、やはり今世も似たような仕事を自然と選ぶだろう。
明確な過去世を覚えていなくても、自身の性格、好み、人生観、こういったものは、今世にも引き継がれるので、基本的にいって、同じような環境要因をみずから選び取る、というか、そうした運命を、みずから人は引き寄せる、という指摘ですね。

それゆえ、人間関係のカルマでいったら、過去、確執のあった相手と、運命的な再会をする神仕組みもあるけれども、
その相手と似たような相手と出会うと、また同じような反応をして、同じような問題が生起するかもしれません。
必ずしも、当の相手の転生した生まれ変わりとの対面ではなくても、似たようなタイプと出会えば、早晩同じような問題が持ち上がって、その解決が出来るかどうかが問われることになる。

病気のカルマにしても、心の問題のカルマにしても、あるいは大きくは国家のカルマ、文明のカルマにしても、このようにして人は、自ら選んだその人生の中においても、自然自然と、自分にとっての課題と直面するような選択をしていき、ふたたび未回答の問題に直面する。

こうした人生の不思議があるのかもしれません。

いずれにしても、カルマの仕組みの理解は、浅はかな理解をするのが一番危険で、インドのカースト制度のように、前世の功徳によって、立派な魂はバラモンに生まれているから、バラモンは偉い。身分の低い人間は、前世よくないことをした罰として、そうした境涯に生まれているのだから、自業自得である。
こういった単純な運命論や決定論、あるいは他の人間に対する裁きの考え方に悪用してしまったりと、人間というものは、どうしても自分勝手で浅はかな理解をしがちなのでしょう。

カルマに関しては、悪いことをしたから報いを受けて当然、自業自得といった考え方を、下手に悪用すると、とんでもない無責任で自己中理論になりかねません。
それゆえ、カルマの秘密を知っても判断を過たない、それだけの十分な悟りを得た覚者にしか、人の三世を見通す力は与えられない、のかもしれません。
生半可に知ることはかえって理解を過ち、危険であるから、隠されているのかもしれません。

前世の功徳が現れるのは事実かもしれませんが、だからといって、バラモン階級として生まれることが全てであるはずもなく、そんな特権を与えられるほど、人間というものは単純ではないでしょう。もっと複雑で総合的に判断しなければ、人間というものは理解が出来ません。

明治維新で下層武士階級に生まれた志士たちは、実は魂においては、光の天使、光の指導霊ともいうべき、諸如来、諸菩薩だったといいます。
大名家に生まれる人が光の天使というわけではなく、使命を果たすために、あえて低い身分で生まれて、自由に活動できる場を選択して出てきたりする。
単なる生まれそのものに、その人の霊格のすべてが出ているわけではないということ。バラモンだの何だのといった身分階級は、単なる一つの条件でしかなく、カルマ的観点からいっても、別段それほど特別視するほどでも、階級制度を保証するものでもない。それが真実かと思います。

カルマの仕組みは奥深く神秘的なので、謙虚なる神への信仰心と、深い理解力がなければ、正しく読み解くことは難しい。とてもとても慎重な態度での考察が必要なのだと思います。