実体験を通して、はじめて本当の理解がいく、ということについて | LEO幸福人生のすすめ

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本は遙か昔に読んでいるのに、わかっていなかった!
なんてことが山ほどあるので、若い頃に読んだ真理の書を読み返すのは、ちょっと怖いような気さえします。
あっ、当時読んだこの本に、こんなことがちゃんと書いてあるじゃないか! これ読んでいるはずなのに、俺はなぜこの内容をもっと真剣に受け止めて、実践努力をしなかったのか!

と思って、悔いるようなことがしばしば書かれていますよ。

本当に人は、目の前にそれがあっても、見る気がなければ「実は見ていない」。
目には映っていても、心には入っていっていない。受け止めることが出来ておらずに、宝の山を前にしても気づかずに、通り過ぎていってしまっているものなのだ。


ということを、今更ながら痛感させられています、わたし。

自分自身がその時点で関心のある視点、強く感じ入るような立場に無い時に読んでも、たしかに活字としては読んでいるし、文章としては読んだような記憶がかすかにあるような気もするのだが、

自分の新たな人生観として「確立するところまで真剣には」読めていなかった、学べていなかった、ということだと思います。


咲也加さんも書籍で述べていましたが、活字として読んではいても身についていないことが多々あって、それは「自分で体験してみないと」本当の意味では学び取れていない、ということでしたが。

これが知識は経験を通して初めて智恵になる、というところですよね。
活字として、単なる知識学習として読んでいるだけでは、まだ魂としての学びになっていない、智恵になっていない。
自分自身の人生経験、体験を通して、その教えの意味を痛感しないといけない。ということでしょう。

こうしてみると、膨大な思想書を読んできていたとしても、いったいそのうち、どれだけのことを「自分の智恵として」獲得できているか。はなはだ疑問であるし、それは半分どころか、10%にも届かない程度の学びでしかないのかもしれませんしね。

著者が述べていることが100だとして、その本を読んだからって、100そのものをすべて理解しきることは無理でしょう。
思想書の場合、著者はみずからの思索や人生経験を通して得た、その思索結果とも言うべきエキスを語っている。
読者はそれらエキスの山を大量に読んだとしても、そのエキスの基となった思索経験や実体験を持っていないのだから、要するに「自分の経験」を経ていない抽象理論の暗記でしかない、ということでもありますから。
これを真に理解し体得するためには、自分自身の魂経験を通した、実感を伴う学びを経ないと、本当の意味ではわからないんですよね。

むろん、だからといって、読書には意味がない、ということにはならないでしょう。
読書は確かに、前もって真相の予感をざっとでも知っておく、という効能はあるはずだし、優れた思想家のエッセンスを知ることは、これから進む大洋での道しるべでもあり、羅針盤を持つ、ということでもあるのだから。
なにも知らずに盲目の人生を行き当たりばったりに生きるよりも、前勉強はきちんとやっておいた方がいいですからね。

実体験を通しての学び、というか、理論として知っていることと、実際に自分の血肉に出来ているかどうかの違いは、最近読んだ、三浦綾子さんのエッセイでも良い例が出ていました。


… つづく。