挨拶をする程度の幼稚園ママさんが、今年上のお子さんを急に亡くされた。
長女と下のお子さんは昨年同じクラスでもあった。
それを知ってから、とても他人事とは思えず、似たような境遇の人間が
そばにいること、天使ママの集まりなどがあることを伝えたくて伝えたくて。
自転車で走り去るのを見かけても、声をかけるタイミングが全くなかった。
ついに先日、小学校の入学前健診でたまたますれ違い、あちらから
声をかけてきて下さった。
「○○の母です。これからも宜しくお願いします。」という一般的な挨拶
をにこやかにされたにもかかわらず、私は
「大丈夫ですか?実は私も2年半前に息子を亡くして…
上のお子さんのこと、とても他人ごととは思えなくて…」
などと色々話しかけてしまった。
ママさんはにこやかさを絶やさずに、ちょっとずつ受け入れてこれて
いるようなことを話された。
他の幼稚園ママさんの目もあったのと、長女が私を急かしたのとで、
すぐに別れたけれど(受付時間ギリギリでもあったし…)、電話番号
でもメモして渡せれば良かったなぁ…
でも、ずっと気になっていたから声を掛けられて良かったか…
帰宅してもそのママさんのことが頭から離れない。
ずーっと考えているうちに、真逆の考えに行きついた。
上のお子さんは小学生だったので、学校全体、地域全体に
知られているママさん。
小学生の子供がいない幼稚園ママだと知らない可能性もあるから、
私にはごく普通の挨拶で済ませるつもりだったのかも知れない。
そういえば、ママさんはいつもマスクをしていた。
私もしばらくずっとマスクをしていた。
気付いてほしくない。
話しかけられたくない。
自分の存在を消したい。
心理学的にも言われているだろうけれど、私は自分が関わった
子供や自分自身の体験から身にしみて理解できる。
私は息子が赤ちゃんだったので、そもそも存在があまり知られていなかった。
でも、幼稚園や近所、友人関係などで、
・息子のことを知っている人―他界を知っている人―次女の誕生を知っている人
―次女の誕生を知らない人
―他界を知らない人―次女の誕生を知っている人
―次女の誕生を知らない人
・息子のことを知らない人―次女の誕生を知っている人
―次女の誕生を知らない人
の6パターンに分けて話をしたり、その中でも情報を更新したり、話す程度を
加減したりと、神経をすり減らすような作業を頭が自動的に行っていた。
今考えると、心理学的にというよりは、マスクは脳が情報処理しきれない事態を
防ぐための助け舟だったのかもしれない。
それなのに、私は共感したつもりで自分がそのママさんから受けた
悲しみを消そうとして、かえって彼女の傷をえぐってしまったのではないか。
たとえ自宅ではまだ茫然自失であっても、外の世界で以前と変わりなく
振る舞う振りをすることが彼女の心を支えているのかもしれないのに…
いや、もしかしたら、私の想像を超えるものすごく強い人なのかもしれないし…
でも私の経験上、まだこれから先に心が底なし沼のようなところに
沈んでいく可能性があって…
しかも季節はどんどん日照時間が短く、寒くなっていく…
○○先生の本は読んだかな?
△△さんのブログは知っているかな?
色んな天使ママの会があることは知っているかな?
気になる点が尽きない。
でも、この先どうするのかは彼女の課題。
そして、そんな彼女とどう付き合うのかは私の課題。
お互いの学びの為にもお節介にはならないようにしたい。