今日は、興味深いきづきがあった。


冬至を過ぎたあたりから、

きもちが沈むというのか

ネガティブな質が覆い被さるというのか


繋がりを拒絶したくなったり

氣力がなくなっていったり

自暴自棄的な考えがうずまいたり


そんな状態になっていた。

そんな自分を眺めて過ごしていた。


少し前から少しずつ起き上がりだして

ほぼ平常時のような感じになったが

ふとした瞬間に、全てが面倒になる

ような感覚がよぎったりしていた。



昨日はヨガの学びがあり、

非暴力という実践において

暴力的なシーンに対峙したとき、


『自分もそこに同化をせずに

非暴力的なサプライズを提供することで

その場の注意をそらす』


といった助言を貰えた。


以前に浅はかな理解があったが、それが

実践できるときとできないときがあった。


それは、結局はそこと同じところに

いるということ。


でも、その助言が、私の中に

すーっと浸透していったように感じた。



そして今朝。

長男のラーニングプラン(連絡帳のようなもの)

が昨日から部屋に見当たらなかったのを

私が見つけて、あったよと渡したら

とたんに機嫌が悪くなった。


宿題をやってないのを、

ラーニングプランがなくなったせいに

できなくなったからだろう。


長男はそこかしこにあたりちらして、

棚に整頓していた教科書やノートを

なぎ倒し、弟を蹴ったりしていた。


いつもどおりの光景。


私はそこで

『まあまあ、あめちゃんでも食べてさ』

と言って飴を渡してみた。


弟は反応したものの、長男には

ほとんど意味をなさなかった。


私の意識の反映だなと思った。


そんな朝だった。



そして夕方、

三男のお迎えに向かう時の道で

2歳になったばかりかなというぐらいの

女の子に目が止まった。


女の子は、自分がやりたかったことを

制止されたのか、お母さんにきもちを

くみ取ってもらえなかったのか


まだ言葉できもちを伝えられないなか、

全身から女の子自身の感情が

現わされていたのを感じた。


それを目撃して、

私の中にきづきが起きていた。



『ヨガ チッタヴリッティ ニローダハ』


という言葉がヨガスートラの中にあるそうで

『波立ったり渦巻いたりしている意識の全ての動きをマスターする』


といった意味があるということを

この間教わっていた。



シュタイナー思想においても

神智学においても

人間が歳を重ねていくに応じた

諸体の発達・進化というのが

あったなぁ、ということを

その瞬間に思い出していた。


昔買った本を見直すと図があった。



その小さな女の子は

自分の感情体をいっぱいに使って

いたのだな。そうか、まだ

メンタル体が使えないんだ!


そうだ、私はメンタル体もそろそろ

しっかりと統制していくような

年齢だったではないかぁー!!恥



あの、年末から襲っていた

ネガティブな波こそ

渦巻いた意識そのものじゃないか



そういえば、今朝、なぜだか

波立っている心の下に潜ると

深い意識のまんなかに

私を生かしてくれている

いのちの働きが見えていたんだった。


あぁ、私はこの働きに従うだけで

いいんだな、と思っていたんだった。


うまく言語化できないけれど、

今日一日できづいたことは

大切なことのように思う。