女王蜂

1978年(昭和53年)2月11日公開

原作:横溝正史作

製作:東宝映画。配給:東宝

監督:市川崑、主演:石坂浩二



女王蜂は、市川崑監督、横溝正史シリーズの第4弾です。

市川崑監督による、横溝正史シリーズは、以下


1.犬神家の一族(1976年〈昭和51年〉10月16日公開)
2.悪魔の手毬唄(1977年〈昭和52年〉4月2日公開)
3.獄門島(1977年〈昭和52年〉8月27日公開)
4.女王蜂(1978年〈昭和53年〉2月11日公開)
5.病院坂の首縊りの家(1979年〈昭和54年〉5月26日公開)
6.犬神家の一族(2006年〈平成18年〉12月16日公開)


当時、女王蜂の公開前、「前3作の犯人がすべて出演する!」という、ものすごい反則なプロモーションをしていました。

それだけこのシリーズはヒットして、沢山の観客を動員し、前作の犯人が誰かを隠す必要もなかったのかも知れません。


その前3作の犯人とは、

岸恵子:神尾秀子
司葉子:蔦代
高峰三枝子:東小路隆子

日本の映画史に燦然と輝く錚々たる大女優達です。


この3名が同時に出演する場面は、東小路家のお茶会の席と、映画の終盤に金田一が開かずの間の謎を解き明かす悲劇のクライマックスシーンだけです。


原作では伊豆の大地主である大道寺家が源頼朝の血筋という伝説を持ち、代々美しい女性が当主となる家系の設定です。男を引き寄せては君臨し子孫を残す女性当主の比喩として、女王蜂という言葉が頻繁に出てきます。


市川崑の映画では、この女王蜂らしい役柄は、唯一、東小路家の当主である高峰三枝子でしょうか。


映画ではそうとは言っておらず、原作と同様に大道寺琴絵(萩尾みどり)と、その娘でこの映画がデビューの大道寺智子(中井貴恵)が女王蜂であると言っていますが、ストーリー上ちょっと無理があります。


この映画は当時も今も賛否両論があって、評価はいまいちだったり曖昧だったりします。


それは恐らく、ひとえにこの『女王蜂』というタイトルが映画の内容と不一致なせいです。


原作は横溝正史の作品の中でも、ミステリーとして非常によくできた力作です。これは、20年前の密室殺人が開かずの間になっていて、そこを開けることですべての矛盾が一気に解決するという、わくわくするようなミステリーの王道なので、原作に敬意を払って、このブログではネタバレを極力しないように努めます。


ところで、俺はすべての金田一シリーズ映画の大ファンですが、この『女王蜂』はその中でも極めて美しい映画だと思っています。


銀蔵(仲代達也)は、20年前、大学生の時、親友のひとしと一緒に天城を旅行して、旅の途中で大道寺家に宿泊し、琴絵と出会います。


ひとしと琴絵は恋に落ちて、2人は滞在中に結ばれます。旅先での一夜限りの恋は、琴絵が妊娠してしまうので、二人の恋は愛へと変わり、ひとしは代々伝わる婚約指輪を琴絵にあげて、結婚の約束をします。


ところが、それがひとしの母の逆鱗に触れて婚約を反故にし、あげた指輪は取り返すように、ひとしに命令します。


そして、ひとしは指輪を取り返すために大道寺家を1人で訪れます。大道寺家を仕切る家庭教師の神尾秀子(岸恵子)は、琴絵とひとしと3人で、後に開かずの間となる唐風の部屋にて、婚約反故の密談を始めます。その最中に、神尾秀子は心配した琴絵の父に呼ばれ、2人を唐の間に残して一旦中座します。


ひとしはこの時とばかりに、母は必ず説得するがとりあえず婚約は白紙にして指輪は返してほしいと、琴絵に懇願します。


一方、神尾秀子は琴絵の父親と、ことの成り行きを案じていた時、突然、辺りをつんざくような琴絵の悲鳴がとどろきます。


急いで、唐の間に駆けつけると、部屋は内側からかんぬきがかけられてドアが開きません。


ドアを叩き、なかの様子を伺うと、なかから琴絵がかんぬきをあけて、放心した状態でドアを開け、そのまま気絶してしまいました。


なんと、部屋にはひとしの死体がありました。神尾秀子が唐の間を中座してから、わずかの間の出来事です。唐の間ではひとしと琴絵が2人きりでいたわけですから、この状況は、どう考えても、琴絵がひとしを激昂のあまりに殺したということです。


翌日、ひとしの死体は崖の下で見つかります。崖から転落したという事故死として、殺人は隠蔽されたのでした。


殺人があったときに家にいたのは、神尾秀子、琴絵の父親、お手伝いの蔦代だけです。この3人によってひとしの殺害は隠蔽されたのです。


琴絵の恋はこの唐の間の事件で、一気に不幸な色彩に塗り替えられてしまいました。琴絵はショックのあまり前後の記憶が不覚となり、唐の間に錠をかけて、鍵を隠し、記憶と共に封印してしまいました。彼女が現実を保つことができたのは、愛したひとしの一粒種を妊娠していたことでしょう。


やがて、ひとしの残した智子が生まれ、琴絵と神尾秀子は智子を愛情豊かに育てます。


智子が3つになった時。事件から4年目。大学を卒業し就職も決まったひとしの親友の銀蔵が、琴絵を嫁に欲しいと、大道寺家を訪れます。


ひとしの殺人を隠蔽した大道寺家は銀蔵の申し出を受け入れて、銀蔵は大道寺家の婿養子になり、大道寺を名乗ります。


琴絵は、銀蔵と結婚したにもかかわらず、智子と神尾秀子とともに天城に残り、京都に住む銀蔵の元へはお手伝いの蔦代(司葉子)を送ります。


そのシーンは回想シーンで登場します。琴絵は蔦代に「わたしのわがままを許して下さい、旦那様(銀蔵)のお世話をお願いします」と申し訳なさそうに懇願しますが、蔦代は「いいえ、わたくしは・・・、嬉しいのです」と頭を下げます。


それを、神尾秀子は蔦代の横で、蔦代をなんとも複雑な表情で見つめます。


実は神尾秀子は銀蔵のことを愛していたのです。

それは、銀蔵とひとしが初めて天城を訪れた時、琴絵とひとしが恋に落ちたのと同様に、神尾秀子は銀蔵に恋に落ちたのでした。


ひとしは琴絵と結ばれます。神尾秀子は銀蔵とは結ばれませんでした。


ひとしと琴絵の恋は悲劇に終わりましたが、神尾秀子は銀蔵への恋心が消えることはありませんでした。


片思いのまま、再び現れた銀蔵は神尾秀子の前で琴絵にプロポーズしました。


琴絵はそのプロポーズを受けながらも、ひとしの一粒種の智子を、ひとしとの一夜限りの愛を永遠の愛として守るために、銀蔵の元にもと芸者で使用人の蔦代を送るわけです。


再び、神尾秀子の前で。


世話をするというのはお手伝いと言う意味ではありません。文字通り、銀蔵の下の世話もする妾として送り出したのです。


蔦代役の司洋子は、さすがに大女優です。


「いいえ、わたくしは喜んでおります・・・ポッ」と、もと芸者の色香を漂わせつつも、年増女の純粋ではないエロさを滲み出しながら、さらには「私のような身分の女にそのような大役を、もったいなく存じます・・・」と泣いてみせる、素晴らしい偽善者ぶりを、難なく演じています。


そんな演技のできる女優はいません。何よりも、役の設定の理解が非常に深い!本物の女優とはこうでなくてはいけません。


ところで、神尾秀子の岸恵子も素晴らしい。

彼女にとっては、銀蔵への愛が2度も裏切られた自分の報われない愛に、胸をかきむしりたくなるような出来事のはずです。


4年にわたる銀蔵への片思いの果てには、心は結ばれなくてもいい、せめて身体だけでも結ばれたいと思うほどにデスパレートな恋心が募っていたかもしれません。


それを、もと芸者の使用人にも奪われる。どんな気持ちで蔦代が泣いてみせる姿を見たことでしょうか。


岸恵子は撮影当時、フランス人の映画監督と結婚してパリのサンルイ島に住んでいました。山口百恵の赤いシリーズで、パリのおばさまというと、必ず『パリの空の下セーヌは流れる』のテーマ曲が流れて登場したものです。


神尾秀子はそんなモダンな趣をもつクールな女性として描かれています。内に秘めた銀蔵への恋心は誰にも見せたことがありません。


琴絵は以来、ひとしを思い続けて、ついには病いに伏せて死んでしまいます。神尾秀子が琴絵の代わりに智子を育てます。


その間、銀蔵は蔦代との間に1子設けます。京都と天城をおそらく行き来しながら現在に至っているのでしょう。智子は銀蔵となさぬ仲だと知っていますが、銀蔵は智子を非常にかわいがります。親友ひとしの子どもですが、同時に愛した琴絵の子どもでもあるのです。


さて、その銀蔵ですが、彼の愛も決して報われてはいません。先ず、20年前。図らずも親友と同時に琴絵に恋してしまい、しかもそれはその場で親友に負けてしまった。


旅行中に初対面で恋に落ちた琴絵が、まさか同行の親友のひとしと、自分に隠れて肉体関係を持ったとは知らなかったことでしょう。


琴絵の妊娠が発覚すると、当然、ひとしは親友の銀蔵に打ち明けたことでしょう。その時の銀蔵の胸の内は想像がつきます。男同士ですから、当然、いつやったのか!?と聞くはずです。銀蔵はそれを知って自分のはかない恋心が無残にも打ち砕かれて、嫉妬や憎悪が渦巻く暗闇にへと落ちたことでしょう。


ところが親友が(世間的には)事故で他界して自分に思いがけないチャンスがやってきます。銀蔵は3年の歳月をかけ、時のくるのを待って、琴絵にプロポーズします。大道寺家はこれを受け入れるしかなっかたとはいえ、琴絵の心は最後までひとしにあった。銀蔵と琴絵との間にセックスがあったかどうかも疑問です。


銀蔵からすると、ひとしの存在が始終頭をよぎり、これほどまでに愛したいまや自分の妻をわが腕に抱く瞬間さえも、耐えられない敗北感にさいなまれたはずです。これで勃起するならば、それは既に愛ではなく、執着でしょう。


挙句の果てに、もと芸者の使用人蔦代をあてがわれるわけです。どんな思いで毎日を過ごしたことでしょう。


この二人、神尾秀子と銀蔵は、実によく似ています。ともに愛する人と結ばれない報われない愛に生きています。


神尾秀子は琴絵が死んだあと、智子を育てますが、それは智子や琴絵への愛情とともに、戸籍上愛する銀蔵の娘だからという気持ちもあったはずです。その愛する銀蔵は、蔦代と京都でよろしくやっているのです。


銀蔵は銀蔵で、これほどまでに愛した琴絵は死んでしまい、成長と共に琴絵の面影が濃くなっていく智子を愛さずにはいられないにも関わらず、本当の父親である亡くなった親友のひとしの面影を決して消すことはできないのです。



すでに琴絵もひとしもこの世にいないために、この二人の愛の敗北はどうすることもできません。

20年にわたる2人の報われない心は、やがて破滅的な終焉へと向かってしまいます。


映画『女王蜂』はこの2人の報われない愛の物語です。なんと悲しく、救いのない話なのでしょう。


さて、琴絵が銀蔵と結婚した後も銀蔵に妾をあてがって死んだひとしに貞操を守り、やがて衰えて死んでいく姿を見た神尾秀子は、琴絵がそこまで愛していたひとしを、いくら感情が激昂したとはいえ、殺すはずはないと思い始めます。


唐の間で殺人が行われたとき、神尾秀子は唐の間に二人を置いて中座しました。次の瞬間には悲鳴が聞こえ、内側からかけられた部屋の中に琴絵とひとしの死体を発見したわけですから、状況的には琴絵以外にひとしを殺せた人はいません。


でも、もし、琴絵が殺したのではないとすれば・・・。


この「もし」が成立するとすれば、ひとしを殺す動機があった人間はただ一人しかいません。


ただし、この仮定を成立させるには、琴絵も唐の間を中座したことを証明しなければなりません。これを証明できる証拠は何もありません。証拠がなければ、単なる「たら・れば」の話です。


神尾秀子はこの疑惑を、当然、銀蔵に聞くことはできません。


20年という歳月は誰にも公平に訪れます。心はみずからを癒し再生させるものです。


神尾秀子と銀蔵の2人は、お互いに向き合うことは1度もなく、常に銀蔵は亡くなった琴絵の、神尾秀子は銀蔵の背中を見ていました。やがて日々に追われ、燃えたぎっていたそれぞれの炎も、ヘパイトスの火種のように、静かに、しかし消えない炎になりました。


この映画で最高に美しいシーンは、日本映画史上でも、最高に美しいシーンの一つだと思っています。



それは、神尾秀子と智子が、天城の大道寺家から京都の銀蔵の家に移り住んだ後の、東小路(高峰三枝子)主宰のお茶会の前日のこと。



金田一はひとしの母親が東小路であることを突き止めて、依頼人の弁護士と一緒に東小路家を訪れます。


ここで、初めて、ひとしが元公家の名家の出身だったと判ります。


東小路家からすると、旅先で知り合った現地の女性と、たった一度セックスをしてしまっただけで運悪く妊娠してしまい、しかも自分の大切な指輪を渡して婚約してしまうなど、もってのほかだったでしょう。母(高峰三枝子)の怒りは、ごもっともでしょうか。


映画は金田一がひとしの母と話すシーンと、銀蔵と神尾秀子が、2人きりになった銀蔵の家で、お茶を飲みながら話すシーンが交互に同時進行します。


もっとも美しいシーンとは、銀蔵と神尾秀子が2人きりで話す方です。


この映画は139分の長尺の映画ですが、このシーンは1時間と7分、映画のちょうど半分です。


ここからの後半にも、新たに2つの殺人が起こるのですが、初めてこの映画を観る人も、ミステリー好きならば、誰が犯人か分かるだけの情報は既に与えられたことに気づくことでしょう。


金田一シリーズも第4作になると、犯人探しというミステリーとしての趣は半分捨てられているようです。これが、この映画の評価を下げているのですが、それではあまりに監督の意図を理解していないというものです。



薄暗い純日本間。対比的に進行する東小路の日本間は見事な書院作りなのに対して、銀蔵の自宅は、ふすまと障子に閉鎖された6畳の居間です。


二人はお茶会の話をします。神尾秀子はこの段階では、ひとしが東小路の出身だったとは知りません。



「あなたと東小路家は、どのような繋がりなの?」

神尾秀子は、まるで世間話のように、かつ、感情を隠して、とつおいつ銀蔵に尋ねます。

「君は何故そんなことを知りたいのか?」

「わたしは、智子さんの幸せを願っているだけです」


東小路家のシーン。


再び銀蔵の家。

お茶を飲む2人の沈黙を崩して、

「結局、なにも、しゃべってもらえなかったわ・・・」

秀子は畳を見ながら、ぽつりとつぶやきます。


「・・・だからと言って、どうにもできないことがある」


この銀蔵の突然の言葉で、二人は見つめあいます。絹糸のような緊張感が走ります。秀子の顔。銀蔵の顔。


おもむろに銀蔵は秀子の手を握ります。そして、秀子の手を引いて彼女を抱き寄せました。


これでこのシーンは途切れ、何事もなかったかのように翌日のお茶会が始まります。


このシーンがいかに美しくも切ないか是非映画をご覧ください。俺のつたない文才では、到底語りつくせません。


市川崑は素晴らしい。そして淡々としゃべる仲代達也も岸恵子も真の役者です。この二人の決して報われることのなかった壮絶な愛憎劇は、20年の歳月の後、破滅という運命にもはや抵抗することを止めてしまったように見えます。


この途切れたシーンはなんと金田一が唐の間の謎を解き明かしたクライマックスの後に再開されるのです。


素晴らしい手腕です。その時になって初めて、お茶会の前日の2人の会話で監督が何を伝えたかったかが分かるのです。


秀子は薄暗い和室の中、銀蔵に引き寄せられ、20年間で初めて銀蔵の胸に抱かれました。


あれほど愛した男の胸です。どれだけこの瞬間を待ち焦がれていたか。そして、なんと運命は2人にとって残酷だったか。


秀子を抱いた銀蔵が言います。

「私は、智子を殺そうとしたことがある。でも、できなかった。いつも琴絵が守っている」


抱き合う二人。

「なぜそんなことをするのか、君は知りたくないのか?」

「もうわたし、なんにも知りたくなくなりました」


「君の気持ちは、以前から知っていた。私も好きだ。しかし、どうにもならないんだ」

「あなたが遠い目をするとき、何を思っているの?」

「海だ。暗い海だ」


能登の暗い波打ち際。荒波。


「あなたのふるさとの海?」

「君は何も知りたくないと言ったはずだ・・・」


そして愛し合う二人。


この瞬間に2人は同じ船に乗っていたことに気づいたのです。

それぞれが実はすべてを知っていたことにも気づきました。

それぞれが知っていることを知っていることに気づきました。

そして、この船はやがて沈むことにも。


そんなことは、科白では何一つ語られていません。


しかし、この67分のシーンは2人が逆うことのできない破滅を受け入れ、運命と共犯者となった瞬間なのでした。


それは愛でしょうか。


そうだといいですが・・・。俺には分かりません。


にほんブログ村 オヤジ日記ブログ 50代オヤジへ
にほんブログ村