続日本紀の762年(天平宝字6年)の第3回目,11月の条から始めましょう。

 本ブログは講談社学術文庫を参考にしており,具体的な記載は中巻P287からです。

 

 

 

 

【11月3日】

 御史大夫・正三位の文室真人浄三,左勇士(左衛士)佐・従五位下の藤原朝臣黒麻呂,神祇大副・従五位下の中臣朝臣毛人,神祇少副・従五位下の忌部宿禰呰麻呂ら四人を遣わして,幣帛を伊勢大神宮に奉らせた。

 

【11月16日】

 参議・従三位・武部(兵部)卿の藤原朝臣巨勢麻呂と,散位・外従五位下の土師宿禰犬養を遣わして,幣帛を香椎廟(福岡市。香椎宮)に奉らせた。新羅の征討のため軍隊を調練するのである。

 

【11月26日】

 幣帛と弓矢を全国の神社に奉った。

 

 

 

 戦勝祈願でしょうか,新羅との戦争準備の傍ら,神社に幣帛を奉納しています。

 

 伊勢大神宮を説明するだけでも記事数本分かかるかと思いますが,ザクッと説明すれば…

 ○ 全国の神社のトップに位置づけられる皇室の氏神

 ○ 祭神は天照大神(内宮)と豊受大御神(外宮)

 ○ 別宮,摂社,末社等含めると125の社宮からなる

 ○ 20年に一度の式年遷宮が有名

 

 

 幣帛は「みてぐら」「へいはく」ともいい,神道祭祀における神への供物です。

 供物としては「神饌」(食べ物)とそれ以外があり,昔は貴重な布をよく奉献しており,「幣」も「帛」も元々は布を意味します。

 

 後代になり,供物とともに神の依代(紙垂を串に挟んだもの,下図参照)自体も幣帛と言われるようになりました。

 

(画像はこちらのサイト様から拝借)

 

 

 神社への戦勝祈願は昔から行われていて,八幡社(総本社の宇佐神宮や鶴岡八幡宮等)が必勝祈願のご利益で有名ですね。

 特に武士の信仰が厚く,八幡様は各地に勧請されています。

 

 国家の必勝祈願は古代・中世だけでなく,近代に入ってからも続いていました。

 私が過去に訪れた神社では,爆弾(銃弾?)を石像で模したものを奉納しており,奉納年から日露戦争あたりに祀られたものでした(神社名は失念してしまいましたが)。

 

 

 

【閏12月2日】

 乞索児(乞食。寿の言葉をとなえて門に立ち,物を乞う)百人を陸奥国に配属し,すぐに土地を与えて定着させた。

 

 

 乞索児と書いて「ほがいびと」と言うそうです。

 なぜそう呼ぶかというと,カッコの注意書きにあるように,寿(ほがい)の言葉を唱えながら物乞いをするから,とのこと。

 

 ここで,現代とは相当イメージの異なる「乞食像」が現れています

 

 私達がイメージする乞食というのは,路上に立ち,あるいは家々を回ってただ食べ物やお金を恵んでもらおうというもので,お願いする方も特に見返りを与えるわけでなく,恵む方も見返りを期待しているわけではなく,憐憫の情(あるいは蔑視)とともに食事やお金を提供することになります。

 

 これとは別に,仏教において乞食(こつじき)という托鉢修行があり,出家したお坊さんが修行としてお布施を集めるものです。

 出家し世間から遠ざかったお寺には現金収入がないので,この托鉢で集めた食材で食いつなぐのです(まぁ、現代日本では檀家さんからの莫大なお布施があるので托鉢修行は不要なのでしょうが…)。

 当然,お坊さんは修行の一環でやっているので,感謝はすれど本来そこに憐れみの情などをかけられる筋合いはないはずです。

 しかしながら,日本では上記の物乞いと仏僧による托鉢修行が同一視されてしまいました

 

 

 ここまでは,多分ご存知かと思われますが,さらにそのルーツを辿っていくと,乞食の原型はこの「寿ぐ」芸能集団にあったと考えられています。

 

 現在でも,伝統芸能として,地域のこどもが新春に田植え歌などを披露して,おひねりをもらうなんていうのが残っている地域もありますが,このような芸能を披露してその見返りに食料等をもらう旅芸人のような人々が存在していました。

 

 こういった芸能は,田植えの真似事を面白おかしくして豊作を祈願する神事でした。

 それがいつしか零落していき物乞いと同一視されていったのだと思われます。

 

 

 続日本紀のこの条に出てくる乞索食は,まさにこの芸能民だったと考えられ,ただ単に施しを受けるだけの人々ではないということです。

 

 「現代の私達の常識では推し量れない事柄」が歴史書などには記載されていますが,それはまた,形を変えつつ後代の歴史に足跡を残しながら,現代まで繋がっています

 

 このようにして歴史書等を読んでいくと,また現代日本を違った角度から見る視座を手に入れることができる,それがこのような歴史書を読む本当の意味なのではないかと感じます。