続日本紀の762年(天平宝字6年)の第3回目,5月の条から始めましょう。

 本ブログは講談社学術文庫を参考にしており,具体的な記載は中巻P283からです。

 

 

 

 

 

【5月23日】

 高野天皇(称徳)と帝(淳仁)との仲が悪くなった。このため高野天皇は保良宮から平城宮に還り,淳仁帝は中宮院(大極殿近くの殿舎か)に入御し,高野天皇は法華寺に入御した。

 

【6月3日】

 五位以上の官人を朝堂に呼び集めて,天皇は次のように詔した(宣命体)

 太上天皇(孝謙)のお言葉として, … ,朕の母上の大皇后(光明)のお言葉をもって,朕にお告げになるには「岡宮で天下をお治めになった天皇(草壁皇子)の皇統がこのままでは途絶えようとしている。それを避けるために女子ではあるが,聖武のあとを汝(孝謙)に嗣がせよう」と仰せになり,それを受けて朕は政治を行なったのである。… 淳仁は朕にうやうやしく従うことなく,外人の仇が言うような,言うべからざることをも言い,なすまじき事もしてきた。 … これは朕が愚かであるために,このように云うのであろうと思うと恥かしく,みっともなく思う。 … そこで朕は出家して仏弟子となった。ただし政事のうち恒例の祭祀など小さなことは今の帝が行なわれるように。国家の大事と賞罰の二つの大本は朕が行なうこととする。このような事情を承り理解せよ,と仰せになるお言葉を,みな承れと申し告げる。

 

 

 いよいよ,孝謙上皇と淳仁天皇の関係が抜き差しならないところまで悪化し,孝謙上皇は新たに定めた保良宮から平城京に戻り,法華寺に入ってしまいます。

 

 6月3日の詔勅(といっても孝謙上皇の指示)を要約すると,以下のとおり。

女性である私が天皇を継いだのは,草壁皇子の皇統を絶やさぬようにという光明皇太后の意向があったからである。

・ その後,淳仁天皇に譲位したが,淳仁天皇は私を軽んじ,陰口を叩いている

・ 定例祭祀は淳仁天皇に任せるが,国家の大事は自ら取り仕切る

 

 もともと,淳仁天皇が危うい地位にいることは,『続日本紀@759年 Part2』で解説しました。

 もう一度,家系図を見ると…

 

 

 孝謙上皇は聖武天皇と光明皇太后の娘だから,草壁皇子の系譜です。

 一方で,淳仁天皇は舎人親王の子供で,舎人親王は草壁皇子とは腹違いの兄弟です。

 孝謙上皇からみれば,淳仁天皇の家系は曾祖父の異母兄弟の家系であって,かなり遠い親戚,現代一般庶民の感覚では,赤の他人と言っても差し支えないのではないでしょうか。

 

 

 日本の皇室のみならず,各国の王朝を見る際には,家系図が非常に大事です。

 王様が亡くなった,あるいはクーデターがあって別な王様を担がねばならない,といった場合には必ず王位継承の正当性にかかる問題が噴出します。

 この『王位継承の正当性』は各国の文化によって解釈が異なる,という点が非常に大事です。

 

 日本の場合は,男系男子にのみ皇位継承を認めると皇室典範に定められています。

 一方で,イギリスのように日本でも女系天皇容認の意見もあり,おそらく安定的な皇位継承について議論がなされていくものと思われます。

 

 

 

 

上記アンケートは下記サイトからの引用です。

 

 

 私の意見は,「D:旧宮家の皇籍復帰」に近く,これに加え,皇籍復帰までの間のピンチヒッターとして1代限りの女性天皇は容認するといったところでしょうか。(皇室といえど,1つの家庭でもあるため,他所様のことに口出しするものでもない,とは思いますが…)

 

 ちなみに,女系天皇と女性天皇の違い,わかりますか?

 ちょうどわかりやすい画像がネット上に転がっていたので転載いたします。

 

 

(画像はこちらのサイト様から拝借)

 

 

 詳細な解説は上記サイト様をご覧いだければと思いますが,女系天皇は母方のみが皇統に属している天皇であり,だからノリスケ・タラオ・イクラは性別が男性でも女系天皇に当たります。

 

 女系天皇の問題は,仮に2~3代経過したとき,イクラちゃんの系譜から生まれた子孫も磯野家の正統な後継者を主張できる点で,しかもそれが制御不能になってしまう懸念があるところです。

 なぎえさんは嫁に出ているから(親戚付合いはあるでしょうが)磯野家からは独立していると考えるのが一般的な家族観でしょう。

 イクラちゃんの孫世代の「磯野家の後継者は俺だから土地財産を相続させろ」という主張が正統である,というのは到底受け入れられないのではないでしょうか。

 

 

 女系天皇容認の例としてイギリス王室が取り上げられますが,イギリス王室は日本の皇室と別な意味で問題を抱えています。

 

 イギリスの王位継承権をもつ人々は,現在なんと5000人もいて,しかもその中には他国の王も含まれています

 (ノルウェー国王ハラール5世や,スウェーデン国王カール16世 等)

 

 イギリス王室の継承権が他国の王家にも認められるのは,イギリス王室が女系王を認めているからです(ヨーロッパの各国王室は歴史的に政略結婚・血統主義などで婚姻関係を結んでいる)。

 その逆に,嫁いだ先の国王家が途絶えた場合にその王位を継承させろとイギリスが口出す口実にもなります(まぁ,独仏王家は男系男子を基本としているので,イギリス側のロジックでしかないのですが…)。

 これがもとで,各国の王位継承権をかけた戦争が繰り返されてきたのです。

 

女系天皇容認には,

・ 数代先まで見ると膨大な数の皇子が誕生し逆に皇位継承が不安定化しかねないこと,

・ さらには好ましからざる人物・国の干渉を招きかねないといった危険がある

ということは留意しておくべきかと思います。

 

 

 話がだいぶそれてしまいました。

 孝謙上皇と淳仁天皇の対立の根本は皇位継承権にあり,孝謙上皇は自分の意に沿わず陰で悪態をつく淳仁天皇を閑職に追い込むこととしました。

 

 

 

【6月21日】

 河内国の長瀬川(旧大和川)の堤が決潰した。のべ二万二百余人を動員して修造させた。

 

 また河川の堤防が決壊していますね。

 治水については相当苦労しているようです。

 

 

 

【8月19日】

 陸奥国で疫病がはやり,物を恵み与えた。

 

【10月1日】

 正六位上の伊吉連益麻呂(いきのむらじますまろ)らが,渤海より帰国した。その国の国使である紫綬大夫・行政堂左允・開国男(爵位の一)の王新福以下二十三人が随行して来朝した。越前国加賀郡に安置し,必要なものを支給した。わが国の遣渤海大使である,従五位下の高麗朝臣大山は先ごろ船上において病に臥し,佐利翼の津(さりはねのつ:出羽国にあったらしい)に到って卒した。

 

 

 今度は陸奥で病の流行があった,と。

 これだけだとどのような病かまではよくわかりませんが,10月1日の条と合わせて読むと,帰朝途上の遣渤海使の中ですでにこの病が蔓延し,日本海沿いに感染を広げてきたのではないかといったことが伺われます。

 おそらく,何らかの伝染病で,日本人には免疫がなくまたたく間に感染が広がったのだと思われます。