今回ご紹介するのは,第6のアルカナ「恋人」です。

 これまでのカードは特定の職位を題材にしてましたが,「恋人」は結婚や愛をモチーフにしたものですね。

 

 カードの意味は以下の通り。

 

【正位置】

・ 誘惑と戦う,自分への信頼,価値観の確立,

 情熱,共感,選択,絆,深い結びつき,結婚,

 継続

 

【逆位置】

・ 誘惑,不道徳,失恋,空回り,集中力欠如,

 無視,空虚,結婚生活の破綻,無干渉

 

 

 中世の人々にとって,恋愛はある意味で娯楽でした。

 『タロットの歴史』では,中世庶民の娯楽について,以下のとおり紹介されています。

 

 中世庶民の娯楽といえば,サイコロ遊び,闘鶏,賭け事などでした。そして,手品師や軽業師が登場する祭りや市などの年中行事に熱狂し,飲酒に溺れ,性に奔放であったと言われています。

 

 性に対する認識は,現在ではタブー視されているものも,当時はおおらかだったと言われています。

 

 魔女のサバトでは悪魔と乱交が繰り広げられた,などと魔女狩り裁判記録に記載されているのも,おそらくキリスト教的世界から見た中世庶民の習俗の乱れを罪の形式として端的に表現したものなのではないかと思います。

 

 ちなみに,日本でも,古くは歌垣,その後に盆踊りなどと形は変えていますが,そういった夜の集いが乱交の場になっていたと言われています。

 

 

 では,中世ヨーロッパの貴族はどうだったのでしょう? これも引用しましょう。

 

 上流階級では,チェス,狩猟,球技,観劇,ダンスなどの遊びが一般的で,かくれんぼが大人の間でも流行りました。楽器や歌を仕事にする吟遊詩人や道化師を雇う王侯貴族もいました。

 宮廷では貴婦人に愛を捧げる「宮廷風恋愛」が大流行。騎士道のルールの下,「誰かの夫人」である既婚女性に愛を捧げ献身しつつも,そのことを誰にも知られてはならないというゲームです。・・・

 

 ということで,このようなプラトニック・ラブが流行ったようです。

 

 ただ,他の文献を見ると,当時の上流階級も現代と比べるとだいぶ性に対しては開放的だったようです。

 

 たとえば,ボルジア家出身の教皇アレクサンドル6世は,教皇庁内の枢機卿を自身の邸宅に集めて乱交パーティを開催したと記録されています。この時のパーティーは「栗拾いの宴」と言われています。

 

 さすがに歴代ローマ教皇でも最悪な部類に入りますが,一方で一番禁欲的と言われていた教皇庁内の高位聖職者にあってもこのような状態だったということは,世俗の権力者がどうだったかはある程度推察できるのではないでしょうか。

 

 

 

【ヴィスコンティ版の恋人】

(画像はこちらのサイトから拝借)

 

 

 いずれのカードにも共通ですが,カード上部には目隠ししたキューピッドが描かれています。

 

 キューピッドはギリシア神話に登場する愛の神であり,恋心を起こさせる黄金の矢と恋をはねつける鋼の矢を持ち,これをいたずらに放ちます。

 

 カードの背景は庭園です。

 庭園は,王侯貴族達が散策を楽しむ場所で,また先にご紹介した「宮廷風恋愛」を育む,つまりそういう情事の舞台でした。

 庭園は一方でヨーロッパの古層文化を形成する森林にも繋がり,そこで実る果樹は人間の愛の営みの象徴にもなっています。

 

 

 

【マルセイユ版の恋人】

(画像はこちらのサイトから拝借)

 

 マルセイユ版になると,女性2人の間に男性,その上部にキューピットが矢をつがえるといった構図になります。

 

 男性がどちらの女性を選ぶか迷っている,そのようなシチュエーションが描かれています。

 男性の顔は左側の女性に向けられていますが,体は正面もしくは右側を向いています。

 頭で考えていることと,腹の中で思っていることは違う,そのようなことを暗示しているのです。

 

 描かれている女性も,左側は月桂冠をかぶり知的な印象,右側は花飾りをつけ可愛らしい印象と,全く違うタイプの女性であることがわかります。

 

 どちらの女性を選ぶか,それはこの時代まさに人生を決定づける選択となり得ました。

 キューピッドの背後に描かれているのは,わかりにくいですがドクロマークで,つまり愛と死が隣り合わせ,表裏一体であることを示しています。

 

 

【ウェイト版の恋人】

(画像はWikipediaから拝借)

 

 ウェイト版の恋人は,見ての通り,「アダムとイブの楽園追放」をモチーフにしています。

 これまでの版ではキューピッドが描かれていましたが,ウェイト版では智天使ケルビムになっています。

 裸のままで楽園で愛を享受する,善悪を知る前の無垢なる魂としての人間愛が表現されていますね。

 

 旧約聖書では,神がアダムを創造し,その肋骨からイブを作り,2人に楽園を与え,そこにある二本の樹(知恵の木と生命の樹)を守るよう指示します。左後ろの樹が知恵の樹で,蛇が絡みついているのが見えますね。

 

 2人は神様から,その木の実を食べてはならないと厳命されていましたが,蛇に「智慧の木の果実を食べると神のように善悪を知ることができるようになる」と唆され,果実を食べてしまいます。

 

 神は,服を着たアダムとイブを見つけ,楽園から追放してしまいます。

 

 

 人間の原罪とはなにか。

 それは,神を目指すこと,そのために終わりなき知識習得に励むこと。

 

 一般に学問的追求は称賛されるべきことなのですが,それをすればするほど神を信じられなくなる。

 現代は,科学技術の発展がすべてを解き明かしてくれる,そのように期待する人々で溢れかえっているように見えます。

 

 神がエデンの園から人間を追放したように,今度は人間が世界から神を追放してしまった。

 その結果として,私達はすべての物事が理解できるようになったのでしょうか,そうだとは思えません。

 

 神を追放した後に残ったのは,結局は自身の存在意義さえ見いだせない不安な存在としての人間,だったのではないか。

 

 

 私個人は,それほどスピリチュアルな人間ではないのですが,同時にすべての問題は科学技術で全て解決できるといった科学技術万能論にも同意できません。 

 現時点でこれと言った回答を見いだせていないのですが,このような問題を考えるために読書の営みが非常に重要だと感じます。