年は明けて,760年,和暦では天平宝字4年,淳仁天皇の治世も3年目に入りました。

 

 

【1月2日】

 淳仁天皇は,藤原仲麻呂の邸宅に行幸します。

 もう,新年のご挨拶に伺いました,的な本家にご挨拶にいく感じですね。

 

 

 

【1月21日】

 七道ごとに巡察使を任命し,人民の暮らしぶり・国司の仕事ぶりを確認させるとともに,田地の調査を実施させました。

 

 前年12月4日に,隠没田(土地台帳に未記載の隠し田)が武蔵国に900町,備中国に200町確認されたため,各道に巡察使を派遣することを予告していました。

 

 そして,巡察使派遣前に隠没田の所有者は届け出るように各国に布告しています。

 

 一町=十段=三千坪で,大体10,000㎡ になりますから,この当時には既に相当の隠没田があったことになります。

 

 

 

【1月4日】(日付に乱れあり)

 

 この日,官位の授与が行われ,藤原仲麻呂は従一位に叙せられました。

 太政大臣の役職に内定してましたが,これは本人が辞退したようです。代わりに大師?という役職を与えられています。

 

 あわせて,雄勝城・桃生城の築城や蝦夷征討に功のあった者も,位階を昇進させ,褒美を与えました。

 

 陸奥の辺境防備に派遣された人の名前を見ると,渡来人系の氏族がその仕事を担っていることが多いようです。

 

 陸奥介兼鎮守副将軍・従五位上の百済朝臣足人。

 出羽介・正六位上の百済王三忠。

 鎮守軍曹・従八位上の韓衰哲。

 

 といった官人の名前が見えます。

 韓衰哲なんかは,軍務にあたった武人と思われますが,名前も中国・朝鮮読みで,渡来一世なんじゃないでしょうか。

 

 

 

【1月5日】(日付の乱れ)

 

 孝謙上皇と淳仁天皇が藤原仲麻呂の邸宅に行幸されています。

 

 760年に入り,孝謙上皇が政務に頻繁に顔を出すようになっています。

 前回の記事で紹介したとおり,皇統が聖武天皇の系譜から別な宮家へ移ってしまうことへの焦りがあったのではないかとうかがわれます。

 

 

 

【3月10日】

 

 陸奥関係で,以下のような詔勅がだされました。

 

 謀反などの罪で朝廷の賎民とされた233人の奴と,277人の婢を雄勝柵に移して,奴婢の身分から解放し,いずれも良民とした。 

 

 どんどん辺境に人を送り出していきますね。

 まぁ,体の良い島流し,といったところでしょうか。

 

 

 

【3月16日】

 

 この日,朝廷は通貨政策に関して以下の詔勅を出しています。

 

 ・・・ この頃偽造が多くなり,贋金が全体の半分にも及んでいる。・・・ そこで新しい様式のものを作り,旧銭と共に併用させたい。民に損がなく国に益があるように願うのである。その新銭の文字は「万年通宝」とし,一枚で旧銭(和銅開珠)の十枚に相当させる。また銀銭の文字は「大平元宝」とし,一枚で新銭の十枚に相当させる。金銭の文字は「開基勝宝」とし,一枚で銀銭の十 枚に相当させる。 

 

 

 和同開珎については,鋳造開始後,すぐさま贋金が流通し始め,銀銭は流通を停止せざるを得ず,贋金造りについて大和朝廷は厳罰を持って臨んでいます。

 

 それでも,贋金造りの誘因というのは凄まじいものがあったのでしょう,型取りをしてそこに動を流せば簡単に鋳造できるとあっては,そりゃ贋金づくりはやめられないでしょう。流通量の半分が贋金という状況では,誰も和同開珎を持ちたいとは思わないですね。