どうも,あらためて昨日書いた記事を読み返してみると,ひどい文章ですね(苦笑)

 本を読む → 調べ物をする → 記事を書く,というのを連続してやると,記事を書くあたりで集中力がなくなっちゃうんだな。

 

 講談社学術文庫の続日本紀は上・中・下の3巻構成で,758年の記述は中巻の真ん中あたりになります。このブログを書き始めるにあたり,上巻から振り返るかとも思ったのですが,最後まで読む前にまた振り出しに戻るとモチベーションがもたないし,おそらく上巻書き始めると,今度は「いや,やっぱ日本書紀&古事記からでしょ」となって,際限なく戻っていくので,もういま読んでるところから紹介しようということにしました。

 

 やることなすこと,すべて場当たり的ですね(苦笑)

 

 さて,今日で758年(天平宝字2年)の記事も最後になります。淳仁天皇の治世ですね。

 

 

【12月8日】

 坂東の騎兵・鎮兵・役夫と帰順した蝦夷らを徴発して,桃生城・小勝柵(雄勝城)を造営した。

 

 前回の記事にも桃生城の件は出てきましたが,雄勝城も合わせて造営されたようですね。雄勝状の正確な位置は現在も不明ですが,秋田県横手市雄物川町にあったのではないかと考えられています。

 

 坂東とは関東地方のことです。坂東の「坂」は駿河と相模の間,つまり箱根の関のことで,これより東の地方という意味です。相模・武蔵・上総・下総・安房・常陸・上野・下野をまとめて坂東八国といいました。桃生城・雄勝城建設のために,関東の人間を移住させたのです。

 

 

 続いて,このような記述が出てきます。

 

 従四位下の矢代女王の位記(位階授与の辞令)を破棄した。先帝(聖武)の寵愛を受けていながら,忠誠の心を裏切ったからである。 

 

 彼女は,天平9年2月に無位から正五位上にジャンピング出世します。聖武天皇に見初められてのことでしょうが,聖武天皇には光明皇后という奥さんがいてそのバックは藤原氏です。だから,聖武天皇との関係はあまりおおっぴらにできなかったのでしょう。

 

 「忠誠の心を裏切った」とあるのは,別の男と恋仲になった,ということでしょうか。想像ですが,天皇家の外戚である藤原家にとっては,他家から出た女性が寵愛を受けていることが許せなかったのでしょう。だから,このような処罰をすることで名誉を汚したかったのではないかと思います。

 

 

 

【12月10日】

 遣渤海使の小野朝臣田守が,唐の緊迫した情勢を報告しています。

 

 安禄山の挙兵から,皇帝が都を捨て蜀に逃げたこと,兵馬を連れ馳せ参じるよう唐から渤海に対し使いが来たこと,その使いが裏切り者で安禄山と通じていたこと,安東都護の王玄志が謀反人を討ったこと,など細かく報告されています。

 

 以前の記事でもご紹介しましたが,唐は755年より節度使の安禄山とその部下の史思明の反乱により大混乱に陥ってました。

 

 杜甫の有名な漢詩「春望」にある「城破れて山河あり」の城とは,安史の乱で廃墟になった長安のことです。

 

 この報告を受けて,大宰府に防備を固めるよう命じます。

 

 安禄山という人物は狂暴な胡人で,狡滑な男である。天命にそむいて反逆を起こしたが,事は必ず失敗するであろう。恐らく征西の計画は不可能で,却って海東を攻略にくるかも知れない。古人は「蜂やさそりにさえ毒がある」(「左伝」)といっている。どうして人間にないことがあろうか。

 

 当時,中国の政治情勢が日本の国防に与える影響は大きかった。現代の日本においても,近隣諸国の政治情勢分析と,日本の国防に与える影響は,自衛隊や政府当局者では分析されているでしょうが,一般的にはあまり関心が払われていないような気がしますね。

 

 現在,中国が全方位にけんかを売っている状況で,非常にきな臭い雰囲気になっています。例えばオーストラリアが中国のサイバー攻撃を非難し,コロナ被害の損害賠償を提起したことに対する報復としてオーストラリア製品にとんでもない率の報復関税をかけています。

 

 また,中印国境では両軍の兵士が小競り合いを起こし,死傷者が発生しています。中国軍は釘バットで殴りかかったようです。

 

 日本の安全は,単独で守れるわけではなく,外交方針も自国の利害だけで決められるものではありませんから,世界情勢の分析は非常に大事です。日本の報道機関は,どうも世界のニュースをあまり取り上げないですね,これじゃ大事な情勢変化に日本人が取り残されると思います。